稲城市

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東京都稲城市

稲城市(いなぎし)は、東京都の多摩地域南部にある市である。

概要

日本住宅公団(現:独立行政法人都市再生機構)による1970年代以降の多摩ニュータウン建設や京王相模原線および小田急多摩線の沿線開発に伴い、多摩川流域の既存住宅地と合わせた人口が急増した。古くからナシやブドウの産地である。サッカーJリーグ・東京ヴェルディのホームタウンでもある。

歴史

旧石器時代
現在稲城市がある地域は比較的古くから人間が住んだ土地であり、旧石器時代の遺跡も多数確認されている。それらの多くは、数点の石器が出土しただけの小規模な遺跡で、約2万年前から1万3千年前のものと考えられている。出土した遺物のほとんどすべてが尖頭器(せんとうき)、細石器(さいせっき)、ナイフ形石器などの石器である。当時の人々はこれらの石器を使い、オオツノジカ、野牛、ナウマン象などの大型獣を追って、丘陵のなかを移動しながら狩猟活動を中心とした生活をしていたと考えられる。

縄文時代
市内最大の縄文遺跡は多摩ニュータウンNo.471, 473遺跡(現在の稲城第4公園付近)で、縄文中期の住居跡が数十箇所発見されている。しかし縄文後期に入ると気候の寒冷化や富士山の噴火による降灰によって、市域は縄文人の生活に適さない地域になったと考えられており、この時期以降の遺跡の数は激減している。

弥生時代
弥生時代の遺跡は少なく、集落遺跡は平尾台原遺跡のみである。この遺跡では、弥生時代中期と後期、そして後期末から古墳時代前期にかけて三度にわたり集落がつくられ、住居跡22軒、方形周溝墓5基が発見された。この地に最初に米づくりを伝えた弥生時代人は、平尾台原の地を拠点として集落をつくり、活動していたと見られる。

奈良時代

青渭神社(稲城市東長沼)
奈良時代には現在の中央図書館の東側、日帰り温泉施設がある一帯に窯が築かれ、須恵器や武蔵国府・武蔵国分寺の瓦を焼いていたことが判っている(多摩ニュータウン No.513 遺跡、通称大丸遺跡)[4]。また市内には式内古社あるいは式内古社論社が三つ存在しており(青渭神社、大麻止乃豆乃天神社および穴澤天神社)、古墳時代以降に再びこの地域に一定規模の集落が存在したことを伺わせる。

平安時代
平安末期には現在の市域は小沢郷に含まれ、武蔵七党のうち秩父党に属する小山田氏の支配となった。小山田氏は多摩川の対岸にあった官牧の小山田牧が私有化された小山田荘を所有した豪族であるが、後に稲毛氏と名乗り、鎌倉幕府の有力御家人となる。

鎌倉時代
稲毛氏は鎌倉時代も引き続き武蔵国小沢郷(現在の大丸から矢野口)を所有した。しかし北条時政が執権の時、稲毛重成・小沢重政の父子は畠山重忠とともに滅ぼされている。その後、小沢郷は、重成の妻が北条政子の妹だった縁で北条氏の支配下に入ったと考えられている。またこのころ、大丸の窯址には砦(大丸城)が築かれていた。14世紀には現在の坂浜地区に高勝寺が創建されているが、この寺に所蔵されている聖観音像(もとは同じ坂浜の妙福廃寺のもの)は12世紀半ばの制作と推定されている。また東長沼の常楽寺は寺伝では行基の開基とされているが、少なくとも本尊の阿弥陀如来像は12世紀前半まで遡るものと考えられている。

南北朝時代
南北朝期には市域も足利尊氏と足利直義の戦闘の舞台となり、穴澤天神社の南にある小沢城が尊氏側の部隊によって焼き払われている。この時期の小沢郷は摂津親秀を当主とする摂津氏が所有していたが、親秀の孫の満親は小沢郷を京都の南禅寺に寄進してしまう。その後の小沢郷の消息は文献上はしばらくたどれない。

戦国時代
次に小沢郷が文献に登場するのは戦国時代である。小沢城は世田谷城などとともに、後北条氏の支配下にあり、1530年には上杉朝興の部隊に攻め落とされるなど、最前線の軍事拠点となっていたことがわかる。後北条氏の家臣団で小沢郷を与えられていたのは垪和氏である。北条氏照が八王子城で戦死し後北条氏が滅亡すると、氏照に従っていた市域の武士たちは帰農したり、あるいは徳川家に仕えて旗本となったと考えられている。例えば坂浜に在住した冨永家は後北条氏に仕えた後、徳川家の旗本になったとされている。

江戸時代
江戸期には大丸村、長沼村、押立村、矢野口村、百村、坂浜村、平尾村の六つの村落が点在していたことが、1845年に制作された『調布玉川惣画図』などから確認出来る。これらの村は現在では「稲城市域六ケ村」と呼ばれている。ただし、この時代までは稲城という地名も存在せず、また現在の稲城市域に地域としての一体性も存在していなかった。

なお、それぞれの村の支配体制であるが、大丸と長沼は旗本の朝倉氏、百村は同じく坪内氏。矢野口は加藤氏と中根氏が支配した後、18世紀半ばに幕府直轄領となる。平尾も18世紀半ばまで黒沢氏で、その後は幕府直轄領。坂浜は天野氏。ただし新田は全て幕府直轄領だった。

明治時代・稲城村の誕生
この地域が地域としての一体性を持ったのは稲城村の成立をもって嚆矢とする。稲城という地名も稲城村の成立時に考案されたものである。その由来ははっきりしない。最も有力な説によれば、稲城村の母体となった東長沼外五か村連合の戸長であり、後に初代の村長となった森清之助が、域内で私塾「奚疑塾」を主宰していた漢学者窪全亮に諮問した結果であるという。この地域が中世に稲毛氏の所領だったことや、かつては良質の米を産したこと、域内にいくつもの山城跡が存在することなどから、「いなげ」に通じる名前として「稲城」が考案されたのではないかと推測されている。

市制施行まで
1889年(明治22年)4月1日 - 矢野口・東長沼・大丸・百村・平尾・坂浜の各村が合併し、神奈川県南多摩郡稲城村の成立(町村制の施行)。当時の人口3,750人、戸数593戸。
1893年(明治26年)4月1日 - 東京府南多摩郡稲城村(三多摩の東京府移管)。
1943年(昭和18年)7月1日 - 東京都制施行。
1949年(昭和24年)xx月xx日 - 北多摩郡多磨村(現府中市)から押立・常久の一部(多摩川右岸部出作地)を編入。
1957年(昭和32年)4月1日 - 町制施行。東京都南多摩郡稲城町[5]となる。
1967年(昭和42年)10月14日 - 現在の市章となる町章を制定する[6][7]。
1971年(昭和46年)11月1日 - 市制施行。東京都稲城市[8]となる。
市制施行後
1973年(昭和48年)11月1日 - 市の木・市の花を制定する
1981年(昭和56年)11月1日 - 市民憲章を制定する[9]。
1991年(平成3年)3月7日 - 平和都市を宣言する[9]。

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