中野区

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東京都中野区

中野区(なかのく)は、東京都の特別区のひとつで、23区西部に区分される。

郵便番号(上3桁)は、164・165。

概要

中野区は旧東多摩郡の東半にあたる。東京23区の西部にあり、地形的には武蔵野台地の一角に位置する。区内には、東西に鉄道が数多く通っている。また渋谷区・新宿区・豊島区など大繁華街を有する区とも隣接しており、鉄道以外にもバスも渋谷駅・池袋駅から中野区内を結ぶ路線があるなど利便性も高い。

産業は、江戸期には、畑作を中心とする近郊農業と、製粉、味噌・醤油醸造など食品工業が整備され、江戸町民の旺盛な食料消費を支える立場にあった。明治中期以降、都心からの転居者などにより人口が増加する。特に1923年の関東大震災以降は、浅草から寺院の新井薬師周辺への引越しが始まり小京都の様な佇まいである。そして、住宅地化が急速に進み、戦前は東中野1丁目・2丁目界隈は旧帝国軍人の街として地元でも知られていた。昭和40年代までに農地はほとんど姿を消した。明治以降、工業化もある程度進んだが、企業城下町のような工業的発展はなく、密集した住宅地としての性格が強い。住宅と同様に明治以降、都心から移転してきた寺が多く、また、区に隣接する落合斎場との相乗効果もあり、葬祭関連の産業もみられる。その他商業、企業のオフィス街としての発展は、第二次世界大戦以降それなりにあったが、中野区は東京都でも指折りの住宅密集地区であり、道路都市基盤が全般的に脆弱であるため、都心・副都心地域や都心隣接の下町地域のような商業地区化には至らなかった。中央線沿線地区を中心に専門学校が数多く存在する。また、昭和30年代以降、多くの漫画家が住んだため、現在も漫画・アニメーション製作は、隣接する杉並区と並んで盛んである。近年、中野坂上地区の再開発により、超高層ビルも立つようになり、コンピュータ・ソフトウェア関連の会社も進出してきている。2012年には、中野駅北口周辺(警察学校跡地)における再開発地域「中野四季の都市(なかのしきのまち)」が街びらきした。「囲町」、「なかの新都心」などと呼ばれることがある。

人口密度は20,479.15人/km2(2015年4月1日推計)で日本で第2位。なお、1位は東京都豊島区22,569.41人/km2。市では埼玉県蕨市13,986.69人/km2が最高。

2012年4月1日現在、道路率は12.8%で23区中21位。狭幅員道路率は84.0%で23区中最下位と、道路都市基盤が脆弱なのが中野区の特徴である。また、一人当たりの公園面積率は2012年4月1日現在1.33%で、23区中22位である。大きな川はなく、公園や緑地が少ない区であり、結果として人口密度が高くなっている。

住宅地
区内全域にわたり戸建住宅や集合住宅が密集して広がっている。低層建築物がほとんどを占めているが、主要道路に面した地域には中層〜高層マンションが多い。いわゆる木賃ベルト地帯の一角であり、賃貸住宅の比率が高く、人口の流動性が高い。建蔽率が高く、隣家との間隔が1m未満の場合であることも珍しくない。緊急車両の進入が困難な狭隘道路が網の目のように存在する。近年では道路拡張などが行われ、耐震構造の住宅も増加しつつあるが、ほとんどが木造住宅であることから、大地震の際には火災危険度が非常に高い[1]とされる。家賃が安く、交通が便利なことから、20〜30歳代の若年層の居住がきわめて多く、18歳未満の子供の居住が少ない。

商業地
中野ブロードウェイをはじめとする大型商業施設や中野サンモール商店街などが中野駅周辺に立地する。丸井は中野駅前が創業の地であり、現在も本社がある。その他、各所に個人経営が中心の商店街が存在する。

歴史

近世以前

中野長者ゆかりの成願寺
1400年前後「中野長者」こと鈴木九郎(1371年頃 - 1440年)が中野の地を開拓。
1447年(文明9年)4月14日 - 江古田原・沼袋の戦いで太田道灌が豊島泰経を破る。
近世
1591年(天正19年) - 中野郷で検地が行われる。
江戸初期 徳川幕府の開府に至り、江戸近隣の郷は整備され、中野郷は、中野・本郷・雑色・江古田・片山・上高田・新井・上沼袋・下沼袋・上鷺宮・下鷺宮の11村に分割される。後に本郷から本郷新田が分村され12村となる。他に江戸期中、大場、新橋の村名記録もある。
1606年(慶長11年) - 成木街道(現青梅街道)が開かれ、中野村内に馬継場が置かれる。同街道は、御白土街道とも呼ばれた。
1695年(元禄8年) - 「生類憐れみの令」に関連して中野村内(現中野4丁目付近)に野犬を収容する犬小屋を作る。
近代
1875年(明治8年)4月20日 - 公立小学校として桃園学校開校(現中野区内で最初の小学校)。
1889年(明治22年)4月11日 - 甲武鉄道(現東日本旅客鉄道中央本線新宿〜八王子)開通。中野駅が設置される。
1904年(明治37年)8月 - 甲武鉄道飯田町〜中野で電車運転開始(日本初の電車営業運転)。
1906年(明治39年)6月14日 - 甲武鉄道に柏木駅(現東中野駅)開設。
1906年(明治39年)10月1日 - 甲武鉄道が国有化される。
1921年(大正10年)8月25日 - 西武軌道荻窪線淀橋町〜荻窪開通。中野町内には淀橋・住友銀行前・宝仙寺前・中野警察署前・中野銀行前・登記所前・鍋屋横丁・追分・西町の各停留所が設置されていた。
1927年(昭和2年)4月16日 - 西武鉄道村山線(現西武新宿線高田馬場〜東村山)開通。野方町内に新井薬師前・沼袋・野方・鷺ノ宮の各駅が開設された。
1928年(昭和3年)5月 - 鉄道省(現東日本旅客鉄道)中央線新宿〜中野複々線化完成。
1937年(昭和12年)12月25日 - 西武鉄道村山線に府立家政駅(現都立家政駅)開設。
現代
1951年(昭和26年)5月1日 - 西武鉄道新宿軌道線(旧西武軌道荻窪線)東京都に譲渡(東京都電14系統杉並線)。
1952年(昭和27年)10月5日 - 中野区の公選教育委員選挙実施。1956年6月に「地方教育行政の組織及び運営に関する法律」が成立し、教育委員は任命制となった。
1961年(昭和36年)2月8日 - 帝都高速度交通営団荻窪線(現東京地下鉄丸ノ内線)新宿〜新中野および中野坂上〜中野富士見町開通。
1961年(昭和36年)11月1日 - 荻窪線(現丸ノ内線)新中野〜南阿佐ヶ谷開通。
1963年(昭和38年)12月1日 - 東京都電14系統杉並線廃止。
1966年(昭和41年)3月16日 - 帝都高速度交通営団(現東京地下鉄)東西線中野〜高田馬場開通(初の日本国有鉄道と地下鉄の相互乗り入れとなる)。
1973年(昭和48年) - 中野サンプラザ(現サンプラザ)竣工、6月1日開業。
1976年(昭和51年)5月 - 日本電信電話公社中野ビル(現NTTドコモ中野ビル)竣工(中野区内初の超高層ビル)。
1997年(平成9年)12月19日 - 東京都交通局地下鉄12号線(現大江戸線)練馬〜新宿開通。
2005年(平成17年)11月30日 - コミュニティバス「なかのん」運行開始。鷺宮・上鷺宮地区から区役所へのアクセス利便性向上を図る。
2012年(平成24年)3月 - 「中野四季の都市」が街びらき。
区の沿革
1868年(慶応4年)6月29日 - 版籍奉還により多摩郡内の現中野区にほぼ相当する12村は武蔵知県事の管理下に属する。
「旧高旧領取調帳」に記載されている明治初年時点での、多摩郡のうち後の東多摩郡域(現中野区・杉並区にあたる地域)の支配は以下の通り。幕府領は代官・松村忠四郎支配所が管轄。●は村内に寺社領が存在。(32村)
知行 村数 村名
幕府領 幕府領 12村 ●中野村、高円寺村、馬橋村、久我山村、上高井戸村、下高井戸村、中高井戸村、田端村、成宗村、本郷新田、和泉新田(和泉村のうち)、大宮前新田、松庵村
旗本領 7村 ●上鷺之宮村、和泉村、上高田村、片山村、●和田村、●上井草村、●下井草村
幕府領、旗本領 8村 江古田村、雑色村、●永福寺村、●上荻窪村、新井村、下鷺之宮村、上沼袋村、下沼袋村
鉄砲玉薬組同心給地 1村 ●本郷村
その他 寺社領 4村 下荻窪村、天沼村、阿佐ヶ谷村、堀之内村
1868年(慶応4年)
7月10日(8月27日) - 旧幕府代官の松村長為(忠四郎)が武蔵知県事に就任。現中野区にあたる地域を管轄。
8月8日(9月23日) - 松村長為知県事が古賀定雄(一平)に交代。
1869年
明治2年2月9日(3月21日) - 太政官布達により古賀知県事の管轄区域に品川県を設置、現中野区にあたる地域は品川県に属す。
1870年
明治2年12月18日(1月19日) - 寄場組合を廃止し24の番組を設置。現中野区・杉並区にあたる地域は6・18・21・22・23番組のそれぞれ一部に相当。[2]
1871年(明治4年)11月14日(12月25日) - 府県統合により品川県を廃止し東京府(第2次)が発足[3]。
1872年
明治4年12月5日(1月14日) - 現中野区にあたる地域の東京府への編入成る。
明治5年1月22日(3月1日) - 多摩郡全域が神奈川県に移管される[4]。後の東多摩郡(現中野区・杉並区)に相当する地域32村が東京府に戻る運動を展開。
8月19日(9月21日) - 現中野区域12村(中野村・江古田村・上鷺之宮村・雑色村・本郷村・本郷新田・新井村・上高田村・片山村・下鷺之宮村・上沼袋村・下沼袋村)が東京府の管轄に戻される[5]。9月10日(10月12日)に編入成る。
1878年(明治11年)11月2日 - 郡区町村編制法により多摩郡は4郡に分割される。12村は東多摩郡に属する。
1889年(明治22年)5月1日 - 町村制施行により本郷・本郷新田・雑色の各村は中野村に吸収合併され、江古田・片山・上高田・新井・上沼袋・下沼袋・上鷺宮・下鷺宮の各村は対等合併して野方村となる。
1896年(明治29年)4月1日 - 東多摩郡が南豊島郡と合併し、豊多摩郡となる。
1897年(明治30年)2月1日 - 中野村に町制施行。中野町となる。
1924年(大正13年)4月1日 - 野方村に町制施行。野方町となる。
1931年(昭和6年)1月 - 中野町において字名改正実施。3つの大字および43在った小字を60町(大字)に再編。
1932年(昭和7年)10月1日 - 東京市(15区)と豊多摩郡を含む周辺5郡が合併して東京市域が拡大、35区が成立する。この際、中野町と野方町が合併して中野区となる。名称は「中野」の中と「野方」の野を1文字ずつ取ったという説と、「中野町」からそのまま取ったという説の両方がある。
1936年(昭和11年)11月 - それまで宝仙寺境内にあった中野区役所を宮園通4丁目(現在、中野郵便局がある場所)に移転。
1943年(昭和18年)7月1日 - 東京都が成立し、東京市は廃止。東京都制施行により東京都中野区となる。
1947年(昭和22年)5月3日 - 地方自治法の施行により中野区は特別区となる。
1950年(昭和25年)8月 - 初代「中野区歌」(作詞・吉田敬文、補作/作曲・堀内敬三)を制定。
1953年(昭和28年)8月15日 - 地方自治法改正施行により区長公選制廃止。ただし、当時公選されていた中野区長は、その後の区議会でも選任され、1963年まで在任した。
1960年(昭和35年)3月26日 - 杉並区との境界を変更する[6]。
1967年(昭和42年)6月1日 - 住居表示に関する法律による住居表示の実施が完了(1931年から1934年までに成立した町名の多くが変更され、町内会の範囲と町名とのずれが固定化する)
1968年(昭和43年)10月 - 中野区役所を中野4丁目(警察大学敷地東部分だった場所)に移転。
1975年(昭和50年)4月27日 - 地方自治法改正により区長選挙実施(中野区区長準公選条例は廃止)
2015年(平成27年)3月13日 - 初代「中野区歌」を廃止し、2代目区歌「未来カレンダー Forever Nakano」(作詞・阿木燿子、補作/作曲・宇崎竜童)を制定。
文化

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