群馬県桐生市
桐生市(きりゅうし)は、群馬県の東部に位置する市の一つ。
日本を代表する機業都市であり、奈良時代から絹織物の産地として知られ、桐生織は京都・西陣の西陣織と並び称された。その歴史を物語るように、市域には数多くの歴史的建造物、史跡などの文化財が残されている。1921年(大正10年)の市制施行当時の区域は旧山田郡。現在の市域は、旧山田郡・足利郡・安蘇郡・勢多郡の区域で構成される。市域人口は約12万人。
概要
上毛かるたで「桐生は日本の機どころ」と詠まれるなど、古くから絹織物の産地として知られる。川内町北部は古く仁田山と呼ばれ、仁田山紬の産地として知られた。川内町にある白滝神社には、この地に機織りを伝えたといわれる白滝姫がまつられており、上毛かるたの絵札には、白滝姫が機織りをする姿が描かれている[1][2]。
地名の由来は、「桐が多く自生する土地」から「桐生」とも、「霧が多く発生する土地」から「霧生」とも言われているが、どちらも決め手は無い。日本各地にある「桐」や「切」の字を用いた地名は中世に発現したとみられるものが多く、この地名がついている地域は河岸の台地や山峡溪谷状の地形で、山城や館址があることが多い。「きり」のつく地域は中世の頃になって新たに開墾された要害地で、「う」は山間部から平野や盆地にうつるような広くない土地をさしていると考えられる[3]。
1889年(明治22年)に町村制が施行され、山田郡桐生新町を中心とする町村合併によって桐生町が発足した。桐生町は1921年(大正10年)に県内3番目、東毛地域内で最も早く市制を施行した。市のキャッチフレーズは、「伝統と創造、粋なまち桐生」。絹織物をはじめとする繊維工業によって育まれた高い技術によって、遊技機産業や自動車部品産業など機械工業が発達した。また、地元に国立群馬大学理工学部がある利点を活かし、産学官連携による次世代のエネルギー産業の育成にも積極的に動いている。隣接するみどり市は、桐生市に所在する各種官公庁の管轄内に含まれ、県の地域区分でも「桐生地区」として一括りに扱われることが多い。
両毛機業地帯の中心地であり、製糸、撚糸、染織、縫製、刺繍など、繊維に関する様々な技術をもつ事業所が集積していることから「織都(しょくと)」という雅称があり、市民憲章や桐生織千三百年記念行事の名称に用いられている。絹織物の繁栄により蓄えられた富は、桐生織物会館旧館・桐生倶楽部会館・水道山記念館・旧桐生高等染織学校講堂など多くの文化財や、桐生が岡公園・大川美術館などを生んだ。2016年度(平成28年度)末の汚水処理人口普及率は96.5%で、全国平均の90.4%を上回っており、群馬県内の市では最も高い[4]。
長く桐生競艇からの収益に依存したこと、高い起業熱や優れた人材の多さが市内から全国区の優良企業を多く生んだことなどから、県内他市と比べて大型工場の誘致に熱心でなかった。その結果、現在では人口減少という深刻な課題が生じている。さらに、両毛地方ではモータリゼーションの進展に伴う中心市街地の空洞化が問題となっており、伝統的建造物を利用した旧市街地の活性化が図られている。
旧市街地には多くの産業遺産・近代化遺産が残っている。鋸屋根の織物工場は、北向きの窓から場内の作業に適した柔らかく安定した光を取り入れ、機械の音が乱反射して和らぐように工夫されている。鋸屋根をもつ建物は200棟以上現存しており、その多くが木造建築であるが、煉瓦造りや石造りの建物も見られる[2]。市のマスコットキャラクターは、鋸屋根の工場をモチーフとした「キノピー」で、2011年(平成23年)3月5日の「桐生市制施行90周年・水道創設80周年記念式典」が行われた際に初めて登場した[5]。
野球が盛んで「球都」と呼ばれる。市内には群馬県代表として初めて全国制覇を経験した桐生第一高等学校や、甲子園で準優勝を二度果たした群馬県立桐生高等学校があるほか、硬式野球部を持つ7校中5校が甲子園を経験している[1]。
歴史
この地域の歴史は古く、奈良時代には既に朝廷へ「あしぎぬ(絹)」を献上したと記されている。養蚕業・絹織物業がこの地域において栄えた理由については諸説があるが、中央(大和地方)からその技術を持った人々が移り住んだ結果という説が最も有力である。それを思わせる伝承も「白滝姫伝説(「桐生織」の項目を参照)」によって、当地方に語り継がれている。織物業はその後の桐生の発展の基盤となり、現在に至っている。
『吾妻鏡』などの文献によれば、平安時代末期に桐生六郎の名が見えることから、地名としての「桐生」は平安時代には既に存在していたと考えられている。ついで1350年には柄杓山(城山)に城を築き、桐生氏(藤姓足利氏の系統)の始めとされる桐生国綱、1500年代中ごろに桐生氏の全盛期を築いた桐生助綱の名が見られる。桐生氏は1500年代後半に由良成繁によって滅ぼされ、以降成繁は柄杓山城を本拠としたが、子の国繁の時に豊臣秀吉の小田原征伐により領地替えが行われた。
1600年、関ヶ原の戦いを直前に控えた徳川家康が小山に在陣中、急遽西進し石田三成を討伐することを決定するが、その際に不足した軍旗を僅かの時間に揃えたのが桐生の村々であった。これにより桐生の絹は一層名を高めたという。
現在の市街地が形成され始めたのは1600年頃、徳川家康の家臣であった大久保長安の命令を受けた大野尊吉によるものとされる。渡良瀬川と桐生川に挟まれた扇状地に桐生天満宮を基点として桐生新町が形成され、絹織物業の発展とともに市街地は郊外に広がっていった。起点となった天満宮前は現在の本町1丁目となっており、2丁目とあわせて当時の区割りと建物がそのまま残された景観が保たれている。
桐生の織物産業の将来性は江戸幕府にも高く評価され、幕府の成立とともに天領とされた。近隣の村々(みどり市、旧藪塚本町(現太田市)、旧新里村)などの農村部では、養蚕が盛んに行われ、多くの富を蓄積。日光・川越・八王子と陸路で結ばれ、全国に広く絹織物を広めた。
天保年間に全国に先駆けてマニュファクチュアを導入。明治・大正・昭和初期にかけて日本の基幹産業として発展し、外貨獲得に貢献した。戦後は、和装離れから絹織物産業は下火となったが、代わって自動車部品産業やパチンコ産業が台頭。幾つものチャレンジングな企業が生まれ、今日の桐生を支えている。
市域の変遷
1889年(明治22年)4月1日 - 町村制施行に伴い、山田郡に桐生町・境野村・広沢村・梅田村・相生村・川内村、南勢多郡に新里村・黒保根村、栃木県足利郡に菱村、安蘇郡に田沼町・三好村・野上村・飛駒村・新合村が成立する。
1896年(明治29年)4月1日 - 東群馬郡と南勢多郡が合併し、勢多郡が発足する。
1921年(大正10年)3月1日 - 山田郡桐生町が市制施行。桐生市となる。
1933年(昭和8年)4月1日 - 山田郡境野村が桐生市に編入される。
1937年(昭和12年)4月1日 - 山田郡広沢村が桐生市に編入される。
1954年(昭和29年)3月31日 - 栃木県安蘇郡田沼町・三好村・野上村が合併し、田沼町が発足する。
1954年(昭和29年)10月1日 - 山田郡梅田村・相生村、川内村の一部が桐生市に編入される。
1956年(昭和31年)9月30日 - 栃木県安蘇郡飛駒村・新合村が田沼町に編入される。
1959年(昭和34年)1月1日 - 栃木県足利郡菱村を編入する。
1968年(昭和43年)4月1日 - 栃木県安蘇郡田沼町の旧飛駒村の一部を編入する。
2005年(平成17年)6月13日 - 勢多郡黒保根村・新里村を編入する。