埼玉県新座市
概要
新座市(にいざし)は、埼玉県南部に位置する人口約16万2千人の市。人口は熊谷市に次ぎ県内10位。東京都に隣接する。
歴史
原始 - 古代
旧石器時代の遺跡は、黒目川流域両岸の台地上に群在し、市場坂遺跡、池田遺跡、嵯峨山遺跡などでナイフ型石器や細石刃が出土している。
縄文時代には、嵯峨山遺跡、池田遺跡、新座遺跡、鎧田遺跡などで大集落が形成された。各期の土器や住居跡などが発見されている。
弥生時代の遺跡は、柳瀬川や黒目川流域を中心に市内では14か所で発見されており、新開遺跡では竪穴式住居跡と方形周溝墓が発掘されている。
古墳時代の遺跡も、市内14か所確認されており、新座遺跡では近畿地方で盛行した叩き目調整の土器、新開遺跡では東海地方の系譜をひく瓢型壷が採集された。前述の方形周溝墓、周辺地域の古墳出現と併せ、これらは、人々の移動や交流、階層分化の動きを示している。
758年 - 新羅の僧32、尼2、男19、女21人を武蔵国に移し、新羅郡が置かれる。朝鮮半島では、新羅が唐と連合して百済・高句麗を滅ぼしたが、次第に唐と対立するようになり、多くの新羅人が渡来するようになったが、新羅と敵対関係にあった政権は新羅人を半島から僻遠の東国に居住させ、この地域の開発を進めるのが目的であった。
平安時代に、新座郡(爾比久良、にいくら)と改称される。新羅という名称が旧俗の号であったためという[2]。
934年頃成立した和名類聚抄によれば、新座郡は志木郷と餘戸郷の2郷から成っていた。志木郷は現在の白子・新倉付近、餘戸郷は片山・大和田付近とする説が強い。
中世 - 近世
中世には、南東部は片山郷、北西部柳瀬川沿いは大和田郷であった。両郷の初見史料(金沢文庫文書、観経玄義分聞集)は、両郷が国衛領(公領)の郷として存在していたことを示している。逆に、荘園(私領)の存在を示す史料は見つかっていない。
この頃、片山郷(本市内片山地区)に片山氏があった。片山氏は開発領主として同郷を名字の地とした武蔵武士であり、源頼朝が武蔵を掌握した1180年頃、その旗下に入った。以降、鎌倉御家人としての道を歩み、1213年の和田合戦、1221年の承久の乱では幕府側につき活躍した。これにより、片山広忠は1222年に丹波和智庄(京都府船井郡和知町)の地頭職を給恩され、1238年より知行のため西遷した。また、片山秀康は伊勢阿下喜御厨の地頭となり子孫が西遷した。
1310年 - 時宗二祖の他阿真教上人が、片山に法台寺開祖する。この頃の文化財として、法台寺に伝わる名号板碑群があり、当時の新座地域に在住した往生衆の存在を捉えている。
1486年 - 京都聖護院道興が新座郡に来て、野寺鐘や野火止塚などを「廻国雑記」に記す。同記には、これ以外にも武蔵野各地や新座ゆかりの地名や人名が随所に見られ、中世新座を理解する上で貴重な史料である。
戦国時代には、滝山領に組み込まれ、北条氏照の支配下となった。
近世初頭には、大和田村、中野村、片山村の3か村が存在していたが、1661年、野火止新田の開発により、野火止、北野、菅沢、西堀の4か村が出来た。更に、元禄年間(1688-1703年)までに片山村が石神、堀之内、栗原、十二天、中沢、上片山(下中沢)、野寺、辻、原ヶ谷戸、下片山の10か村に分かれる。大和田村、中野村は芝山氏が知行し、片山村は「片山七騎」と呼ばれる中下級家臣の知行となった。
1655年 - 松平信綱は、安松金右衛門に命じて、玉川上水を分流し新河岸川に至る野火止用水を完成させる。
近代 - 現代
1871年(明治4年)11月14日 (旧暦) - 浦和県・忍県・岩槻県の3県が合併して埼玉県が誕生。
1875年4月8日 - 新座郡野寺村・中沢村・十二天村・下中沢村・下片山村・石神村・原ケ谷戸村・辻村・堀ノ内村・栗原村が合併し、片山村となる。
1889年4月1日 - 町村制施行に伴い、新座郡大和田町・野火止村・北野村・菅沢村・西堀村が合併し、新・大和田町が成立する。また片山村単独で片山村が成立する。
1896年3月29日 - 新座郡が廃止され、北足立郡に編入される。
1955年3月1日 - 大和田町、片山村が合併し、新座町(にいざ)が発足する。
1970年11月1日 - 市制施行により、新座市となる[3]。
1981年7月1日 - 防災行政無線が開局される。
2018年1月 - 市役所の建て替えが完了予定。