東京都府中市
府中市(ふちゅうし)は、武蔵国の国府が置かれていた、東京都多摩地域にある市である。「ほっとするね、緑の府中」がキャッチフレーズになっている[1]。
概要
東京都のほぼ中央、新宿から22km西方、日本橋からは30km西方に位置する都市で、武蔵野・多摩地域の旧北多摩部に当たる。
1954年(昭和29年)4月1日に、府中町(府中駅)と多磨村(多摩村とは異なる)および西府村の1町2村が合併して「府中市」が誕生した。
律令時代に武蔵国の国府が置かれた地である事から、武蔵国の国府という意味で府中と呼ばれており、それを市名とした。当地以外の国府と区別するために「武蔵府中」とも呼ばれる(例:武蔵府中税務署)。詳細については「#名称」にて後述。
古代の遺跡が多く、また645年の大化の改新後に武蔵国の国府が置かれるなど古くから政治や経済と文化の中心地として栄えており、江戸時代は甲州街道の宿場の中でも大きな「府中宿」があった。鎌倉時代にも要衝地域となっており、戦後も多摩地域の主要都市として行政機関・病院等の公共機関が数多く集積する。
交通網としては、上記の地理的、歴史的な観点から、現在でも東京都区部近郊の交通の重要な拠点として東西南北(区部・東京郊外・神奈川県および埼玉県)を結んでいる。これは国府設置以来中心地にある大國魂神社を基点に発達していったことが影響している。
市内には、行政機関・大企業の研究開発所および工場等の大規模な施設が多く、商業施設や高層住宅は府中駅周辺に多い事からこの一帯の地価は160万円/坪を超える[2]。また、一級河川や雑木林や山があるなど、市域のほとんどが居住に適した平地でありながら、河川に野山、数多くの広い公園や農地緑地など、多くの緑を有している。
夜間人口と昼間人口がほぼ同一なのは、近隣のベッドタウン都市とは違い職住近接した生活環境である事が理由で、これらから市民の満足度が高く、市のアンケートでもほぼ全市民が将来も住み続けたい街として回答しており、「生活実感値」満足度都内第1位とされる事もある[3]
歴史
旧北多摩郡で、大化の改新後武蔵国の国府所在地である事など政治、経済、文化の中心であり、古くから栄えていた事が各資料から判明している。鎌倉時代にも要衝地域として重要な地位を占めており、末期には幕府の存亡をかけた合戦の舞台となった。江戸時代には主要な宿場町として、また近在の物資の集散地として発展する。戦後も多摩地域の主要都市として行政機関、病院群、大企業の研究開発所や工場が数多く集積し、東西南北への複数の鉄道路線が交差している。
古代
1750か所を超える発掘調査が行われており[4]、旧石器時代の尖頭器は若松町一丁目[注 1]他で発見、縄文時代の土偶も若松町一丁目[注 2]で発見、分梅町・美好町付近では古墳群が発見されており、旧石器時代の朝日町遺跡や縄文時代の武蔵野公園遺跡・浅間山前山遺跡・天神町遺跡・新町遺跡など数も多い。旧石器時代の礫群も発見されており、加熱調理施設であったと確認された[5]。この時代は狩猟が主であった。
大化の改新後、国司が東国に派遣された際、武蔵国造の根拠地の大宮を避け、比較的早くから屯倉が設置され[6]、古来交通に産業に重要な役割を受持った玉川中流域に面する[7]府中の地に武蔵国の国府が置かれた。国府は大國魂神社付近であり、発掘調査によって神社東隣に国衙の一部と推定される遺跡を発見、市がその土地を買い取り公開されている。武蔵国の国衙は、8世紀前葉期に建設された事が明らかになってきた[5]。武蔵国の国分寺は国府から約2km、現在の国分寺市内に置かれ、古代の東山道武蔵路は武蔵国府から北上する官道であった。北に向かい川越へ至る「川越道」、鎌倉へ至る「相州道」が南へ続くなど、南北の道路が発達していた。
「武蔵国」も参照
中世
鎌倉幕府の時代は、古文書の中から重要拠点として記載され、中世の鎌倉街道上道が市内を通る。現在も一部が残り、同名称の街道が併存、新田義貞と鎌倉幕府軍が争った戦場も残る(1333年、分倍河原の戦い)。まいまいず井戸も発見されており、ハケ上に水をもたらし、畑作も行われていた。
近世
江戸時代には甲州街道沿いが整備されて鎌倉街道との交差点周辺を中心とした宿場町として栄えた。周辺の大部分は天領で、川崎定孝(平右衛門)による開拓と用水の整備が進み、田畑の耕作も盛んになる。かつての南北に走る道路にかわり、東西に走る道路が中心となっていく。
「府中宿 (甲州街道)」も参照
明治時代には北多摩郡の郡役所が置かれるなど、中核地を担った。大正時代には複数の鉄道が、昭和には、日本製鋼所東京製作所、東芝府中事業所、日本小型飛行機(株)など相次ぐ設置、軍の施設(府中基地)が置かれ多摩村の一部に掛かる飛行場設置など、かつて盛んであった農業の割合より工業・商業が増えて現代の府中を形作っていった。
現代
日本製鋼所東京製作所跡地、府中インテリジェントパーク(Jタワー)周辺。日鋼町。
第二次大戦後1950年代以後に宅地開発が進み、行政機関、都立病院を含む多くの大病院、日銀を代表とする各銀行の計算センター、大企業の研究開発所および工場の集積も相まって人口が急増し、東京都下の拠点都市として発展し続けている。
年表
旧石器時代(約3万年前):武蔵野段丘に居住が始まる(武蔵台遺跡)。
縄文時代(約4000年前):低地や川沿いに村が出来る(大國魂神社裏遺跡・武蔵野公園遺跡)。
645年:大化の改新に伴い、武蔵国の国府が府中に置かれる。
1590年:府中宿本町に府中御殿造営
1602年:甲州街道が整備され、府中宿が置かれる。
1868年:韮山県設置、市域の南西部が県域になる。残りは武蔵知県事所管となる。
1869年:品川県設置、市域の南西部を除き、県域となる。
1871年:廃藩置県により順次翌年までに神奈川県に編入。
1878年:多摩郡が分割され、市域は北多摩郡域となり、北多摩郡役所が府中の番場宿に置かれる。
1880年:市域中心部の4町(新宿町、本町、番場宿町、八幡宿町)と屋敷分村が合併して「府中駅」となる。
1889年:市域東部の8村が合併して多磨村に、西部3村が合併して西府村になる。府中駅が名称を変えずに町制施行(1893年にとなる)。
1893年:三多摩(北多摩、南多摩、西多摩)郡が東京府に移管された。
1910年:東京砂利鉄道(後の国鉄下河原線)開通。
1913年:電話開通。
1916年:京王電気軌道(現:京王線の一部)開通。
1922年:多摩鉄道(現:西武多摩川線)開通。
1925年:玉南電気鉄道(現:京王線の一部)開通。
1929年:南武鉄道(現:JR南武線)開通。
1933年:東京競馬場開場(目黒競馬場が目黒区より移転したもの)
1943年7月1日:東京府が東京都となる。
1954年4月1日:府中町、多磨村、西府村の合併により市制施行(東京都内の市部で6番目)。
1955年:京王競馬場線開通。
1955年:多摩村連光寺のうち、多摩川北岸の地区(下川原地区、現在の南町の一部)を編入。
1956年:国道20号バイパス(新甲州街道) 東府中 - 本宿間開通。
1961年:国道20号バイパス 東府中 - 調布間開通。
1965年:武蔵台4丁目を国分寺市へ編入(現在の西恋ヶ窪、日吉町の各一部)
1968年12月10日:三億円強奪事件発生(栄町)。
1973年:国鉄(当時)武蔵野線開通。それに伴い、下河原線旅客輸送は廃止された。
1991年:府中の森芸術劇場を開館
1992年:インテリジェントパーク(Jタワー)完成
1993年:生涯学習センターを開館
1995年:稲城大橋有料道路が開通
1996年:伊勢丹府中店・フォーリス・府中駅南口のペデストリアンデッキがオープン
1998年:府中四谷橋の開通
2000年:府中市美術館を開館
2004年:環境美化推進地区と喫煙禁止路線を指定
2006年:税務署跡にいきいきプラザを開館
2007年
ルミエール府中開館
景観行政団体となる(都内では2番目)
2008年
府中市景観条例を施行
「国指定天然記念物 馬場大門のケヤキ並木 保護管理計画」を策定(国の天然記念物に指定されたケヤキ並木は日本唯一)
2009年
JR南武線西府駅開業
武蔵国府跡(大國魂神社境内、武蔵国衙跡)が国の史跡に指定
馬場大門けやき並木が東京都から府中市に移管
景観ガイドライン(屋外広告物)運用開始(都内初)
国府祭パレード(第1回「こくふロマン交流祭」)開催
2011年
府中市暴力団排除条例を施行(都内市部初)
府中市郷土の森物産館(府中市観光物産館)を開館
2016年
小室哲哉を「東京多摩振興 特命 武蔵国 府中大使」[8][9]に任命。
2017年
国史跡武蔵国府跡(国司館地区)保存活用整備工事(第1期)着手[10]
都課長の土橋秀規を二人目の副市長に選任
大型複合施設「ル・シーニュ」の竣工により、府中駅南口市街地再開発事業計画が完了。
国内最大規模の新学校給食センター稼働
府中市出身の代官・川崎平右衛門の没後250年記念事業
名称
「府中」とは「国府所在地」を意味する地名で、かつてから「府中」と呼ばれており、これを市名とした。
「府中市」と称する市は、当市と広島県府中市の2市が存在しているが、総務省(旧:自治省)の方針では、このような同一市名は望ましくないとしている。市制申請は当市が先であったが、その後に広島県府中市が、市制施行の日付をそれの1日前