埼玉県幸手市
幸手市(さってし)は、埼玉県東部にある人口約5万人の市である。
概要
江戸時代から日光御成街道と日光街道(奥州街道)の合流点に位置する宿場町として栄えていた。市内には徳川将軍が日光東照宮へ墓参する
際に立ち寄った聖福寺や明治天皇が行幸した折に宿泊した行在所跡が残る。
歴史
注意:幸手市およびその前身の幸手町と合併する以前の各町村の歴史についてはそれぞれの項目を参照。
(明治合併:幸手宿、内国府間村)
(昭和合併:幸手町、行幸村、上高野村、吉田村、権現堂川村、桜田村、八代村、豊岡村)
近代以前
古代から中世までは下総国葛飾郡に属す。
幸手の地名はこの地に日本武尊が東征に際して「薩手が島」に上陸、田宮の雷電神社に農神を祭ったという言い伝えが残っており、「幸手」の市名はその薩手(さって)に由来すると伝えられている。
鎌倉時代から江戸時代の初めにかけては古河公方の家臣一色氏の領地であった。
江戸時代には、大部分が幕府の支配(天領)となり、関宿向川岸・槙野地は下総国関宿領となった。五街道が整備され、日光街道の宿場町(幸手宿)として現在の市街地の基盤が形成される。
略歴年表
1319年(元応元年) - 一色氏が三河国幡頭郡一色より下総国田宮荘に入部する。
1399年(応永6年) - 一色直兼が田宮荘に入部する。
1498年(明応7年) - 田宮の浪寄に石堂四郎義房と大安養康が宝持寺を建立する。
1526年(大永6年) - 2月15日、宝持寺開山の季雲が寂す。
1547年(天文18年) - 4月25日、宝持寺第二世の大安養康が102歳で寂す。
1554年(天文23年) - 10月、北条氏康が古河公方足利晴氏を攻め、北条軍により田宮城および天神島砦が落城する。
1555年(天文24年) - 一色宮内少輔直勝が北条氏康より田宮荘の本領に安堵される。
1590年(天正18年) - 一色宮内大輔直朝と子の義直が田宮城を退去し、下総国大淵寺に隠居する。直朝の二子である政義は川崎(上川崎)に隠棲し渡辺大膳と改称し土着する。
1591年(天正19年) - 12月、徳川家康は一色宮内義直を御家人とし武州幸手5160石を賜る。
1592年(文禄元年) - 1月23日、徳川家康が葛飾郡幸手の不動院と浦和・中尾の玉林坊に年中行事職を安緒する。
1609年(慶長14年) - 11月、一色宮内義直が72歳で没す。
1615年(元和元年) - 一色照直が大阪に出陣し伏見加番中に没す。
1616年(元和2年) - 3月1日、一色政義が上川崎の渡辺家にて没す。
1641年(寛永18年) - 権現堂川が利根川に疏通する。
1642年(寛永19年) - 4月21日、徳川家光は日光社参の帰路に幸手宿の正福寺にて昼食休憩を行う。
1648年(慶安元年) - 幸手宿の宝持寺と聖福寺がそれぞれ寺領10石を付せられる。
1651年(慶安4年) - 4月10日、幸手宿の御憩息所をはじめとする宿場の3分の2を焼失し、伊奈忠治が注進する。
1660年(万治3年) - 伊奈忠克により葛西用水路が開削・整備され、琵琶溜井などが形成される。
1780年(安永9年) - 6月、大雨による増水で利根川・荒川などが決壊し水害が起こる。この年に幸手宿をはじめ栗橋宿・杉戸宿・粕壁宿・草加宿は水難による修理費として幕府に拝借金を請願する。
1784年(天明4年) - 葛飾郡幸手宿の名主などによる窮民賑救を称し、正福寺境内に「義賑窺餓の碑」が建立される。
1795年(寛政7年) - 幸手の知久文左衛門が幕府により権現堂川・江戸川の水防見廻役に命じられる。
1809年(文化6年) - 8月、国学者の橘守部が葛飾郡幸手宿に移住する。
1826年(文政9年) - 6月、権現堂川筋の大修築が幕府により行われる。
1833年(天保4年) - 8月28日、葛飾郡幸手宿に米穀屋の打ちこわしが起る。
1868年(明治元年) - 8月、幸手宿をはじめ、ほぼ今日の市域が下総知県事の所轄となる。
1869年(明治2年) - 1月、下総知県より葛飾県となる。
1871年(明治4年) - 11月、葛飾県・小菅県の両県が廃止となり、埼玉県となる。
1872年(明治5年)
幸手郵便局が置かれる。
埼玉県の出張所が幸手・行田・越ヶ谷・岩槻に置かれる。
2月1日、幸手学校が創立される。
4月9日、庄屋・名主・年寄などを廃止し、正戸長・副戸長が置かれる。
1873年(明治6年)
3月28日、日光御成街道の足立郡川口町より幸手町に至る区間において並木を伐採し、道路修築費に充てる。
知久文蔵宅に幸手学校が設立される。
1875年(明治8年) - 6月、知久文題宅より担景寺に幸手学校が移転する。
1876年(明治9年) - 権現堂川堤が改修され、行幸堤となる。
1877年(明治10年) - 幸手警察署が置かれる。
1881年(明治14年) - 7月30日および31日に明治天皇東北巡りで幸手に宿泊する。
1886年(明治19年) - 幸手学校が尋常小学幸手学校となる。
1888年(明治21年) - 久喜幸手道(久喜新道、現:県道幸手久喜線)が開通する。
1889年(明治22年)
4月1日、町村制の施行に伴い、幸手宿・内国府間村が合併し北葛飾郡幸手町となる(現在の中・北・西・南・東・緑台・大字幸手・大字内国府間の地域)。
6月、幸手町外六ヶ村組合立幸手高等小学校を開設する。
1890年(明治23年) - 6月、幸手町に電信分局が開設される。
1891年(明治24年) - 幸手町に幸手商業会が設立される。
1894年(明治27年) - 電報が開始される。
1895年(明治28年) - 3月30日、千葉県東葛飾郡関宿町大字向河岸及び大字向下河岸が分離して中葛飾郡豊岡(とよおか)村に編入され、豊岡村大字西関宿となる。
1896年(明治29年) - 3月29日、中葛飾郡が北葛飾郡に統合される。
1899年(明治32年) - 大雨により権現堂川の堤防が決壊する。
1908年(明治41年) - 3月31日、幸手町外六ヶ村組合幸手農業学校の設置が認可され、幸手町大字幸手仲1391番地に開校する。
1910年(明治43年) - 関東大水害により大水が発生する。
1911年(明治44年) - 電話線開通。
1914年(大正3年) - 電燈が設けられる。
1917年(大正6年) - 北葛飾郡桜井村大字細野が分離し北葛飾郡吉田村に編入される。
1913年(大正12年) - 9月1日、関東大震災により被災する。
1928年(昭和3年)
庄内古川が改修され、宇和田公園が竣工する。
7月4日、東武鉄道の幸手杉戸間の乗合バスが運行認可される。
1929年(昭和4年) - 4月1日、東武日光線幸手駅が開業。
1930年(昭和5年) - 3月、北葛飾郡上高野村の葛西用水路琵琶溜井樋管が総工費1万9100円をかけ改修される。
1932年(昭和7年) - 4月、南埼玉郡太田村大字栗原に「葛西用水路五閘改修之碑」が建立される。
1933年(昭和8年) - 幸手町に図書館が設立される。
1941年(昭和16年) - 幸手実業学校(現:埼玉県立幸手桜高等学校)が開校する。
1947年(昭和22年) - カスリーン台風により水害が発生する。
1954年(昭和29年) - 11月3日、幸手町・行幸村・上高野村・吉田村・権現堂川村が合併し、新たに幸手町となる。
1955年(昭和30年)
1月1日、桜田村の一部(大字中川崎・大字下川崎)を編入する。
4月1日、八代(やしろ)村・豊岡村の一部(中島・花島・槙野地・西関宿)を編入する。
1956年(昭和31年)
1月1日、大字戸島字弁天、北天神、中水尾、南天神、六八、稲荷、浮張、内土腐、二本木、庄兵衛、二本木前及二本木裏が分離して杉戸町に編入され、杉戸町大字本島となる。
9月1日、大字戸島字戍高入が分離し、杉戸町大字本島に編入される。
1957年(昭和32年) - 幸手電報電話局が置かれる。
1958年(昭和33年) - 幸手旧市街地(幸手宿)を迂回する国道4号の現道が開通する。
1959年(昭和34年) - 江戸川の堤防工事が開始される。
1960年(昭和35年)
行幸小学校の学校給食が開始される。
幸手中学校・上高野中学校・行幸中学校・権現堂川中学校が統合され、幸手中学校となる。
9月10日、公益法人幸手商工会が設立される。
1961年(昭和36年) - 上水道が整備される。
1964年(昭和39年) - 有線放送が開始される。
1966年(昭和41年) - 屎尿処理場が整備される。
1967年(昭和42年) - 幸手町役場の新庁舎が竣工する。
1968年(昭和43年) - ごみ処理場が竣工する。
1969年(昭和44年) - 埼玉県道26号境杉戸線が改修される。
1972年(昭和47年)
栄第一小学校が開校する。
上高野小学校が移転する。
1973年(昭和48年) - 幸手町中央公民館および農村文化センターが開館する。
1974年(昭和49年) - 幸手町消防署が置かれる。
1975年(昭和50年) - 長倉小学校が開校する。
1976年(昭和51年) - 栄第二小学校・栄中学校が開校する。
1978年(昭和53年) - 幸手東小学校・東中学校・西中学校が開校する。
1979年(昭和54年) - 町立吉田幼稚園が開園する。
1980年(昭和55年)
埼玉県立幸手高等学校が開校する。
11月7日、町章(後の市章)および幸手町の花(さくら)・幸手町の木(槇)が制定される。
1982年(昭和57年)
緑台小学校が開校する。
幸手町の桜泉園屎尿処理場が竣工する。
B&G幸手海洋センターの体育館およびプールの使用が開始される。
幸手町立図書館が開館する。
1983年(昭和58年) - 桜泉園可燃ごみ処理場が竣工する。
1984年(昭和59年)
吉田第一小学校および吉田第二小学校が統合され、吉田小学校となる。
桜泉園と粗大ごみ処理場が整備される。
幸手町消防署東分署が置かれる。
幸手町立武道館が開館する。
1985年(昭和60年)
幸手町西公民館および西農村文化センターが設けられる。
権現堂川小学校が移転する。
幸手町児童館が開館する。
1986年(昭和61年)
3月28日、上吉羽中央公園および上吉羽西公園が開園する。
10月1日
市制施行により、幸手市となる。
市民憲章が制定され、文化都市宣言が宣言される。
10月、勤労者体育センター多目的グラウンドが竣工する。
11月、市制施行により幸手商工会が「幸手市商工会」へと改名される。
1987年(昭和62年)
4月、幸手駅前貫通道路が開通する。
5月、幸手市北公民館が開館する。
10月、幸手市民体操が発表され、第1回ふるさと祭りが催される。
1988年(昭和63年)
3月31日、幸手総合公園が開園する。
4月、権現堂桜堤周辺農地への菜の花の作付けが開始される。権現堂桜堤周辺での花いっぱい運動が開始される。
5月、幸手市民歌(『しあわせ風景』)が発表される。
6月、幸手市南公民館が開館する。
1989年(平成元年)
1月、都市計画道路幸手鷲宮線が開通する。
6月、勤労福祉会館が開館する。
1990年(平成2年)
4月1日、平和都市宣言が宣言される。
4月、香日向小学校が開校する。
4月、在宅老人デイサービスが開始される。
1991年(平成3年)
4月、公共下水道の供用が開始される。
5月、幸手市東公民館が開館し、幸手市弓道場が開場する。
7月、幸手市コミュニティーセンターが開設される。
7月、市制5周年記念花火大会が開催される。
10月、幸手八景が決定される。平和都市宣言モニュメント「しあわせの手」が設置される。
10月1日、健康ふれあいスポーツ都市宣言が宣言される。
1992年(平成4年)
2月、権現堂調節池(行幸湖)が竣工する。
3月、第1回幸手市さくらマラソン大会が開催される。
5月、ひばりが丘球場が開設される。
1993年(平成5年)
4月、テレホンガイドが導入される。
5月、幸手市消防署西分署が置かれる。
1994年(平成6年)
3月、幸手市営釣り場が開設される。
4月、よろず相談所が開設される。
10月、さくら10万本運動が開始される。
11月、第1回幸手市民祭りが開催される。
1995年(平成7年)
1月、幸手市民文化体育館(アスカル幸手)が開設される。
3月、大島新田調節池が竣工する。
10月、第1回行幸湖クリーン作戦が開催される。
11月、2004年(平成16年)埼玉国体でのカヌー・新体操競技の開催地に幸手市が決定する。
幸手市最終処分場が竣工する。
1996年(平成8年)
1月、幸手市内循環バスの運行が開始される。
4月、首都圏中央連絡自動車道の都市計画が決定される。
4月、埼玉県道152号加須幸手線のバイパスが一部開通する。
5月、心身障害者地域デイケア施設「さくらの里」が開設される。
6月、第2次行政改革大網を策定する。
10月、市制施行10周年記念式典が催される。
10月、第1回クリーン幸手市民運動が催される。
10月、東さくら通りに寒桜が植栽される。
1997年(平成9年)
3月、市民より公募をした「幸せの手形」アスカル幸手に設置する。
4月、第4次幸手市総合振興計画が策定される。
4月、権現堂桜堤に県下最高の33万人の花見客が訪れる。
10月、ごみの分別収集が開始される。
1998年(平成10年)
3月、さくらふれあい広場が竣工する。
4月、24時間巡回型ホームヘルプサービスが開始される。
田園都市づくり協議会による公共施設の相互利用が開始される。
県内初の投票管理システムを導入する。戸籍情報システムを導入する。幸手市内循環バスの利用者が10万人を超える。
1999年(平成11年)
幻の米「白目米」が復活する。
幸手市の管理職の希望昇任・降任制度が導入される。
市内全中学校にインターネットが導入される。
2000年(平成12年)
さくらサミットが開催される。
情報公開制度および個人情報保護制度が実施される。
国際交流協会が設立される。
市内の中学生を広島記念式典に派遣する。
2001年(平成13年)
栄第一小学校と栄第二小学校の統合が決定する。
神扇グラウンドが竣工する。
心身障害者デイケア施設「なのはなの里」が開設される。
乳幼児医療費支給年齢(入院分)を小学校入学前にまで拡大される。
第10回さくらマラソン大会が開催される。
2台目の高規格救急車が導入される。
2002年(平成14年)
幸手東小学校と緑台小学校の統合が決定する。
行幸湖で第1回ドラゴンボート大会が開催される。
2003年(平成15年)
3月19日、東武伊勢崎線(現・東武スカイツリーライン)・日光線の東京地下鉄半蔵門線・東京急行電鉄田園都市線への相互直通運転開始。
栄第一小学校と栄第二小学校が統合され、さかえ小学校が開校する。
権現堂桜堤と行幸湖を繋ぐ外野橋が開通する。
本因坊八世伯元・九世察元の墓石が発見される。
幸手警察署が香日向駐在所を開設する。
2004年(平成16年)
高齢者元気アップ体操教室が開催される。
市内で彩の国まごころ国体のカヌー・新体操競技が行われる。
防犯の街づくり協定が締結される。
2005年(平成17年)
幸手東小学校と緑台小学校が統合され、さくら小学校が開校する。
幸手市保健福祉総合センター(ウェルス幸手)が開設される。
中心市街地活性化に向け「TMO幸手」を認定する。
幸手市行財政改革ATCプランが策定される。
幸手駅東口駅前広場を2007年度(平成19年度)の工事完了を目指し「完了期間宣言路線」として公表される。
本因坊八世伯元・九世察元に続き十世烈元の墓石が発見される。
2006年(平成18年) - 5月14日、香日向コミュニティセンターと東鷲宮駅を結ぶ路線バスが中田観光バスにより運行開始。
2008年(平成20年) - 3月14日、幸手駅東口駅前広場竣工。竣工式典挙行。
2009年(平成21年) - 3月31日、幸手市立栄中学校が閉校となり、幸手市立幸手中学校に統合される。
2010年(平成22年) - 4月1日、日本保健医療大学開学。
2012年(平成24年)
3月31日、幸手市立香日向小学校閉校。
5月7日、東埼玉総合病院が市内に移転、開院する。
7月、埼玉利根保健医療圏医療連携推進協議会による「とねっと」の本格運用が開始される。
2013年(平成25年)
4月1日、消防が広域化し、埼玉東部消防組合となる。
平成の大合併における幸手市の動向
平成の大合併に際して幸手市では当初、県は異なるが経済圏や生活圏が同一であるため隣接する茨城県猿島郡五霞町との合併を目指して法定協議会を設置し、準備を進めていた。しかし、合併後の帰属県など越境合併特有の難点もあり越県合併反対運動が発生、最終的に増田実市長のリコール運動へと発展した。発議事態は無効となったものの増田市長は責任を取って辞職し、2003年(平成15年)11月22日に出直し市長選が行われ隣接する久喜市の水道部長であった町田英夫が新市長に当選。この結果を受けて同じ埼玉県内での合併に方針転換し、12月に久喜市と鷲宮町が設置していた合併協議会へ加わった。
2004年(平成16年)、3市町の合併後の新市名を「桜宮市」とすることが決定するがこの名称に対し久喜市で反発が強まり、桜宮市を新設して合併を行う是非を問う住民投票が実施され、その結果幸手市や鷲宮町では賛成票が上回ったのに対し久喜市で反対票が上回り合併構想は白紙撤回されることになった。
2007年(平成19年)12月、町田市長は久喜市と鷲宮町・栗橋町・南埼玉郡菖蒲町の4市町が新たに設置した協議会で進められている合併協議に加わる意向を表明したが、協議会側は幸手市議会の承認を参加条件としたことから幸手市側は合併特例法の期限である2010年(平成22年)3月までに手続きが間に合わないとしてこれを拒否し、単独で存続することとなった。