埼玉県入間市
概要
入間市(いるまし)は、埼玉県南西部に位置する市。人口は久喜市に次ぐ県内13位。狭山茶の主産地として知られている。
歴史
奈良時代には、前内出窯、平安時代には、須恵器窯跡群である東金子窯跡群(窯跡群としては前内出窯を含む)が操業していた。そのうち、八幡前窯跡群や新久窯跡群は、埼玉県南部の集落に須恵器を広く供給するのみならず、武蔵国分寺の塔再建の瓦などを生産していた。 市内の中核を成していた扇町屋商店街はかつて日光脇往還・八王子通り大山道の宿場町として栄えた名残りである。
1938年(昭和13年)陸軍航空士官学校(現航空自衛隊入間基地)が開設。
1945年(昭和20年)に軍事施設が戦後進駐軍に接収され「ジョンソン基地」になる。
1956年(昭和31年)9月30日、豊岡町、金子村、宮寺村、藤沢村、西武町の一部(旧東金子村)が合併し、入間市の前身となる武蔵町が発足[1]。
1958年(昭和33年)10月14日、元狭山村の一部を合併。
1958年(昭和33年)航空自衛隊入間基地が発足する。
1966年(昭和41年)11月1日、武蔵町を入間町と改称した[2]上で即日市制施行[3]。入間市となる
入間と狭山の地名は入り組んだものになった。入間市立狭山小学校、狭山市立入間小学校がある。なお狭山市では地名混同を避けるため旧入間村に由来する地域名「入間地区」を2009年4月、入間村成立以前の村名に由来する「入曽地区」に改め、狭山市内の「入間地区」の名称は公式には廃止となり、現在は一部の自治会名や事業者等に残るのみとなっている。狭山市立入間小学校は少子化のため2011年3月に閉校となった。
1967年(昭和42年)4月1日、西武町を合併。ほぼ現在の市域となる。
1978年(昭和53年)ジョンソン基地が全面返還される。
1983年(昭和58年)4月1日、狭山市との境界が変更され、現在の市域となる。
1991年(平成3年)8月9日、防災行政無線運用開始。
2014年(平成26年)4月1日、防災行政無線放送等変更。
市名の由来
古代の律令制施行による国郡里制以来の郡名「入間郡」に由来する。
1966年(昭和41年)11月1日の市制施行にあたって市名を一般公募し、応募者数2332人、応募市名297点[4]の中から「入間」(いるま)が選ばれた。選出理由については、
この地域は昔から「入間野」と呼ばれており[5]、この地域で作られる生産物に「入間」の文字が一般的に用いられている。
「入」の字は「豊かな収入」を、「間」の字は「太陽を囲んだ平和な生活を営むこと」を表す。
とされる[6]。
狭山市との合併構想
狭山市・入間市合併協議会を設置し、狭山市との合併を検討していた。合併期日は2006年1月1日とし、合併方式は新設(対等)合併、新市名は「狭山市」、新市庁舎は現狭山市役所とすることとした。
しかし、市名も市庁舎も狭山市側にするという所まで譲歩したにもかかわらず、本田技研狭山工場等からの収入が薄められるといった観点での狭山市民の反対意見が多いと言うことが入間側にも伝わり、最初は積極的な意見が主流であったが徐々に入間市民に反感がうまれ、[要出典]2005年1月30日に集計された市民へのアンケートで合併反対が多数となるに至った。また、狭山市でも入間市と合併することで市民税率が上昇する可能性を嫌い、[要出典]住民投票で合併反対が多数となったため、合併協議会は同年2月3日に解散された。