守谷市

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茨城県守谷市

守谷市(もりやし)は、茨城県南部に位置する市。旧下総国相馬郡(北相馬郡)。旧千葉県。東京都市圏。

概要

旧市街地はかつて城下町、その周辺は田園地帯となっていた。長らく純農村であったが、1966年(昭和41年)6月に首都圏近郊整備地帯の指定を受けて以後、民間デベロッパーによる小規模な乱開発を経て、日本住宅公団(現:都市再生機構)や三井不動産による大規模宅地開発により東京都心部へ通勤するベッドタウンとして市街化が進行、国道294号とそれに並行する常総ふれあい道路沿いを中心に産業活動が活発化している。2005年(平成17年)8月24日に開業した首都圏新都市鉄道つくばエクスプレス開業に伴い、宅地開発を中心にさらなる開発が行われている。

歴史

名称の由来
守谷という名称の由来には3つの説があるが、正確には分かっていない。

日本武尊が東征の際にこの地を訪れ、鬱蒼と茂る森を見た際に驚嘆して発した「森なる哉」(もりなるかな)という言葉から「森哉」(もりや)となったという説がある。しかし、日本武尊が守谷を訪れたという確証はない。
平将門が城を築いた際に入り江(現在は消失)に守られたこの土地を「守るに易き谷」と評したことに由来するという説がある。しかし、守谷城を築城したのは将門ではなく後世の相馬氏と推測される。なお、市内には平将門にまつわる伝説・言い伝えが数多く残されている。
郡司の官衛、屯倉があった処から「まもりびと」「もりや」になったという説がある。
守谷の鎮守神として奉られている牛頭(ごず)大王(八坂神社)に納められている神鏡に「下総国守谷郷牛頭大王守護所、大同元年丙戌、神主吉信」と書かれていることから、806年(大同元年)には守谷郷の名称がみられ、それ以前より守谷の名称が用いられていたと考えられる[8]。また、1614年(元和7年)の神社奉納品には「森屋之郷」と記されており、異字である「森屋」も用いられていたと考えられる。

また、守谷町、大井沢村、高野村、大野村が合併した際に、新町名を守谷町とした理由は、景行天皇以降徳川時代より(旧)守谷町を中心に付近数里の間を「守谷郷」と称していたことによる[1]。審査方針は5つあり、「郷土民情にふさわしき町名」、「住民の納得する町名」、「子孫に悔いなき町名」、「一般社会に知れやすい町名」、「郷土のふうしょうを現される町名」であった[1]。また、新町名選定の際には守谷町の「守谷」と大野村、高野村の「野」を合わせて「守谷野」とする案もあったが、「守谷」となったことには大井沢村住人が守谷を支持したことも後押しとなった[9]。

合併と旧町村
守谷市の前身である守谷町は、1955年(昭和30年)3月1日に北相馬郡西部1町3村が合併したことにより誕生した。合併時の人口は12,001人[10]。

合併は1953年(昭和28年)9月1日に交付され、同年10月1日から施行された町村合併促進法に基づき懇談会・座談会等を経て審議されたものであったが、当初予定では(旧)守谷町を中心として、大井沢村、大野村、高野村(以上、現・守谷市)、小絹村(現・つくばみらい市)、高井村(同地→現・守谷市・それ以外→現・取手市)・稲戸井村(現・取手市)で合併を行う予定であった[1]。この場合の予定人口は19,612人、世帯数3,432戸、面積58.218km2[1]。 1954年(昭和29年)5月7日には1町6ヶ村による代表者会議を開催し、同月26日には関係町村を含めた各町村10名ずつの代表者による合計70名で構成された「町村合併促進協議会」が発足。総務部、財務部、教育民生部、産業経済部、土木部の5つの専門部を設け、守谷町長を会長・他6ヶ村の村長を副会長、各部代表者の互選による代表者を部長として合併促進が進められたが、小絹、高井、稲戸井の3村が1町6ヶ村の合併に慎重な態度を取った。そのため、組合立中学校等を共同経営し、守谷町市場や法務局守谷出張所等の共同利用、同管轄である守谷町、大井沢村、大野村、高野村での合併を進めることとなった。その後も小絹、高井、稲戸井の3村に合併の促進を促したが、意見が一致せず、同年8月6日に新町建設計画の骨格である協定事項25項目を決定した。また、同月29日には新町名を「守谷町」に決定。同年11月12日に議会で合併決議が行われ、同年12月13日に県知事に申請。翌1955年(昭和30年)1月13日付で認可された[1]。これに先立つ1954年(昭和29年)12月2日には、1町3村合併に先立ち、高井村大字同地(人口187人、28戸宅地33,517.354m2(10,319坪)、耕地469,091.14m2(47町3反))が守谷町に編入されることが決定。翌1955年(昭和30年)2月15日に編入された。その翌月3月1日に守谷町、大井沢村、大野村、高野村で合併が行われ、現在の守谷市域が確定した[1]。

(旧)守谷町
現在の赤法花、小山、中央、ひがし野、本町、松並、みずき野、百合ケ丘の全域及び松ケ丘、けやき台の一部、同地(1955年2月15日〜3月1日まで)に相当する。町の中央は海抜20mの台地で、その周辺が谷津田となっていた[1]。常総鉄道(現:関東鉄道常総線)が南北に通り、守谷駅から銚子街道沿いを南に2,000mほど商店街を形成。町内にある守谷駅は常総鉄道内で2位の乗降客数であった[1]。
明治以前より守谷町とされていた区域は、現在の中央、ひがし野、松並、百合ケ丘の全域と本町の大部分であり、1881年(明治14年)に辰新田村、1883年(明治16年)に西奥山新田を編入(現在の本町字辰新田、本町字奥山新田で、これらを含む1889年以前の旧守谷町が後の大字守谷である)。1889年(明治22年)に守谷町・小山村・赤法花村が合併し、(旧)守谷町が誕生、旧町村はそれぞれ大字守谷、大字小山、大字赤法花となった。大井沢村、高野村、大野村との合併直前である1954年(昭和29年)7月時点の旧守谷町の人口は4,817人、面積は8.55km2である。翌2月15日には高井村大字同地を編入し、3月1日の3町1村合併まで同地は(旧)守谷町の大字となっていた。合併直前の町役場所在地は守谷町大字守谷甲19番地1[10]。

以下は、1889年(明治22年)から1955年(昭和30年)までの旧・守谷町の町長である。

代 氏名 就任年 退任年 備考
初 平尾譲吉 1899年 1906年2月12日
2 原田時次郎 1906年2月13日 1907年10月25日
3 荒川増郎 1907年10月26日 1909年4月27日
4 野澤章夫 1909年4月28日 1910年6月7日
5 藤平清次 1910年6月8日 1912年3月18日
6 上床重幸 1912年12月7日 1921年3月8日 1917年12月6日を挟んで2期連続
7 長谷川亀之祐 1921年4月21日 1927年3月6日 1925年4月20日を挟んで2期連続
8 古谷茂三郎 1925年8月27日 1930年8月26日
9 平尾栄作 1930年8月31日 1934年8月30日
10 古谷茂三郎 1934年9月11日 1938年9月10日
11 田中偉三郎 1938年9月11日 1940年1月24日
12 吉田亀次郎 1940年4月28日 1946年11月25日 1944年2月15日を挟んで2期連続
13 奈幡建三 1947年4月25日 1952年5月27日 1951年4月4日を挟んで2期連続
14 片山亀之助 1952年6月28日 1954年3月11日
15 吉田亀次郎 1954年4月23日 1955年2月29日
大井沢村
現在の板戸井、大木、大山新田、久保ケ丘、御所ケ丘、立沢、松前台、薬師台及び、緑の一部に相当する。大字板戸井、大字大木、大字大山新田、大字立沢の4大字があった。合併直前である1954年(昭和29年)7月時点の旧大井沢村の人口は2,696人、面積は11.25km2である。
「大井沢村」を参照
高野村
現在の乙子、高野、鈴塚、美園及びけやき台、松ケ丘の一部に相当する。大字乙子、大字高野、大字鈴塚の3大字があった。合併直前である1954年(昭和29年)7月時点の旧高野村の人口は1,724人、面積は6.29km2である。
「高野村 (茨城県)」を参照
大野村
現在の大柏、野木崎、及び松ケ丘、緑の一部に相当する。大字大柏と大字野木崎の2大字があった。合併直前である1954年(昭和29年)7月時点の旧大野村の人口は2,577人、面積は8.22km2である。
「大野村 (茨城県北相馬郡)」を参照
合併時の新町建設方針
1955年(昭和30年)の新町発足時の守谷町(現:守谷市)の方針は、産業都市を目指したものであった[1]。そのため、道路整備及び軽工業工場の誘致を行うことを計画し、工場の誘致を行った。

年表
先土器時代 市内にある遺跡(郷州原・乙子・大日・北守谷)から発掘された遺跡により、守谷に人が住み始めた時代であると推測されている[11]。
鎌倉時代前期 相馬師常により守谷城が築城。以降、相馬氏(下総相馬氏)の本城となる。
1538年 相馬氏が北条氏政と古河公方足利晴氏と和睦し、北条氏への服従を示すため守谷城を北条氏へ明け渡す。
1566年 芳春院周興(ほうしゅんいんしゅうこう、足利義氏の母)が守谷城へ入城。
1590年(天正18年) 豊臣秀吉による小田原征伐の際、相馬氏は北条方についたが、秀吉の臣である浅野長政らの勧告を受け降伏し、守谷城を開城した。徳川家康の命により、相馬氏に代わって土岐(菅沼)山城守定政(とき(すがぬま)やましろのかみさだまさ)が守谷一万石としてこれを治め、守谷(現在の本町)は城下町として発展する。
1616年(元和2年) 菅沼定義が高槻に転封となる。
1619年(元和5年) 菅沼頼行(定義の子)が守谷城主となる。
1628年(寛永5年) 頼行が出羽上山に転封となり、守谷城は事実上の廃城。
1642年(寛永19年) 守谷の一部が佐倉藩堀田氏の所領となり、堀田正盛の子、堀田正俊が領主となる。
1668年(寛文元年) 酒井忠孝が領主となる。
1681年(天和元年) 守谷最後の城主・酒井忠挙が厩橋へ転封。
1688年(元禄元年) 関宿藩領へ編入。もはや城下町ではなくなり、にわかに衰退。
この頃から江戸時代末期まで、現在の守谷市は関宿藩領、天領、田安領、その他旗本領に分割されていた。
1777年(安永6年) 大山村が大山新田に改称。
1869年(明治2年)2月23日(旧暦1月13日) 下総知事県に代わり、本格的な行政組織として葛飾県を設置。現在の守谷市内にあった町村のうち、守谷町、辰新田村が関宿藩、その他が葛飾県所属となる。
1871年(明治4年)12月25日(旧暦11月14日) 廃藩置県後の県の統合により、葛飾県が生実県、古河県、佐倉県、関宿県、曾我野県、結城県と合併し、印旛県を設置。全域が印旛県となる。
1873年(明治6年)
5月 大区小区制により、現在の守谷市を構成する旧町村の全域が第十四大区六小区となる。また、すぐに再編成で第五大区七小区となる。
6月15日 印旛県が木更津県と合併し、千葉県を設置。千葉県所属となる。
1875年(明治8年)5月7日 茨城県所属となる。第九大区二小区となる。
1878年(明治11年) 大木新田と大木村が合併し、大木村となる。守谷町に巡査交番所交番を設置。斉藤斐が守谷町に郵便局を設置。
7月22日 郡区町村制施行。同時に相馬郡が、利根川を境に南相馬郡と北相馬郡に分離し、北相馬郡所属となる。
1879年(明治12年)
2月 守谷町外2ケ村戸長役場を(旧)守谷町に設置。
相馬郡奥山新田が西奥山新田に改称。
1881年(明治14年) 相馬郡辰新田村を守谷町に編入。
1883年(明治16年) 相馬郡西奥山新田を守谷町に編入。
1884年(明治17年)6月 守谷町外5ケ村戸長役場を設置。
1889年(明治22年) 市制及町村制施行により各町村が合併し、(旧)守谷町(守谷町・小山村・赤法花村)、大井沢村(大木村・大山新田・板戸井村・立沢村)、大野村(大柏村・野木崎村)、高野村(高野村・鈴塚村・乙子村)が成立。
1890年(明治23年) 鬼怒川を通る蒸気船「通運丸」が運行開始。
1893年(明治26年) 竜ケ崎区裁判所守谷出張所設置。
1913年(大正2年) 常総鉄道(関東鉄道常総線)開通。
1917年(大正6年) 鬼怒川の河川改修、右岸築堤工事完了。
1920年(大正9年)頃 鉄道の台頭により、蒸気船「通運丸」運行終了。
1955年(昭和30年)
2月15日 (旧)守谷町が北相馬郡高井村大字同地を編入。
3月1日 (旧)守谷町・高野村・大野村・大井沢村が合併、北相馬郡守谷町となる。
4月 合併後の第1回町長選挙が行われる。
10月 第8回国勢調査。人口12,095人。
1956年(昭和31年)
1月27日 板戸井の鬼怒川に滝下橋が開通。板戸井、大木の渡船場を廃止。
2月 合併後の第1回町議会選挙が行われる。
6月 首都圏近郊整備地帯の指定を受け、大規模な宅地開発が計画される。
1959年(昭和34年)
1月 守谷広報(現:広報もりや)第一号発行。
2月 第2回町長選挙が行われる。
3月 役場が大字守谷字仲町(現:本町字仲町)に移転。高野支所を高野出張所に改組。
1960年(昭和35年)
2月 第2回町議会議員選挙が行われる。
3月 大柏、立沢、野木崎の台畑116haの農地集団化(交換分合)事業が完了。
4月 第9回国政調査。人口11,449人。
11月15日 南守谷駅開設。
1961年(昭和36年)
1月 町内に株式会社呉砥石所(現:株式会社クレトイシ)の誘致が決定。
4月 守谷町立守谷中学校と同大井沢中学校が統合される。
1962年(昭和37年)
4月 守谷町内に株式会社呉砥石所東京製造所が開設され、操業を開始。
6月 明星電気株式会社の誘致を決定。
8月 利根川架橋促進協議会を設置。
12月 町東南部の発展を図るため、守谷町が進めていた郷州(現:みずき野付近)の開発計画を一部買収が困難なことから断念し、立沢大久保団地の開発を行う[12]。株式会社前川製作所誘致決定。
1963年(昭和38年)
3月 利根川架橋促進委員会により、県へ陳情を実施する。
4月 北相馬郡取手町と境界を変更。35.51km2から35.47km2になる。また、企業誘致促進奨励措置条例を廃止する。
7月 町立土塔保育所が開所。
1964年(昭和39年)
2月 第3回町議会議員選挙が行われる。
4月 大字守谷字向原(現:百合ケ丘三丁目字向原、イオンタウン守谷の位置)に、明星電気株式会社守谷工場が開設。操業開始。
12月 第4回町長選挙が行われる。
1965年(昭和40年)
1月 第10回国勢調査。人口11,475人。
3月 株式会社前川製作所立沢工場が開設。操業開始。
12月 守谷字城内(現:本町字城内)に第一町営住宅が完成。
1966年(昭和41年)
4月 公募により、町章を制定する。
6月 首都圏近郊整備法に基づき、首都圏近郊整備地帯に指定される。
7月 国土開発幹線自動車道建設法に基づき、新高速道路の予定路線(常磐自動車道)が定められる。
12月 守谷字仲町(現:本町字仲町)に第二町営住宅が完成。
1968年(昭和43年)
2月 第4回町議会議員選挙が行われる。また、それに伴い定数を22名に削減。
3月 守谷沼圃場整備事業が完成。88.7haが整備される。
4月 守谷字土塔に第三町営住宅が完成。また、農林省から葱の指定産地に指定される。
12月 第5回町長選挙が行われる。
1969年(昭和44年)
7月 株式会社前川製作所守谷工場の第一次起工式が行われる。
8月 守谷町都市開発対策協議会が発足。第1回協議会が行われる。
9月 大規模宅地造成事業推進座談会開催。
11月 利根川左岸回月及び上下水道対策特別委員会を設置。
1970年(昭和45年)
2月 守谷町都市計画審議会を設置。
5月 株式会社前川製作所守谷工場が操業開始。
7月 守谷町都市計画区域の区分が決定。市街化区域と市街化調整区域が定められる。
10月 第11回国勢調査。人口12,300人
1971年(昭和46年)
1月 北守谷特定土地区画整理事業(常総ニュータウン北守谷)施工区域計画決定。
4月 守谷町社会福祉協議会設立。
5月 守谷字城山(現:本町字城山)に第四町営住宅が完成。
1972年(昭和47年)
2月 第5回町議会議員選挙が行われる。
3月 常総地方広域市町村圏事務組合が設立。
4月 野木崎保育所が開所。
5月 守谷町文化財調査委員会が発足
6月 常磐自動車道の守谷町内区間のルート公表。
12月 第6回町長選挙。南守谷土地区画整理事業区域を市街化区域に編入を決定。
1973年(昭和48年)
2月 取手市と境界を変更。35.47km2から35.46km2になる。また、南守谷特定土地区画整理事業(常総ニュータウン南守谷)施工区域計画・常総広域環境センター計画が決定。
6月 都市計画用途地域が決定。面積717ha。
12月 常総広域老人福祉センターが着工。
1974年(昭和49年)
3月 高野地区圃場整備事業計画が決定。面積70ha。
10月 常総広域環境センターが操業を開始。
12月 町の木、町の花、町の鳥を選定。
1975年(昭和50年)
3月 白寿荘開設。
7月 第12回国勢調査。人口14,505人
1976年(昭和51年)
2月 第6回町議会議員選挙が行われる。
5月 日本住宅公団(現:都市機構)による北守谷特定土地区画整理事業(常総ニュータウン北守谷)が認可。
11月 第7回町長選挙が行われる。
1977年(昭和52年)
4月 北園保育所が開所。
9月 常総広域運動公園野球グラウンド・自由広場が竣工。
10月 常総広域消防守谷出張所庁舎が竣工。
12月 三井不動産により、郷州地区埋蔵文化財包蔵地の予備調査が実施される。
1978年(昭和53年)
4月 公営事業守谷町上水道事業が発足。滝下橋の歩道橋が竣工。
9月 第8回町長選挙が行われる。
11月 公共下水道工事が開始。
12月 日本住宅公団と県が常総線沿線地域宅地開発(計画)を締結。また、常総ニュータウン北守谷地区の使用収益が開始。
1979年(昭和54年)
1月 日本住宅公団による南守谷特定土地区画整理事業(常総ニュータウン南守谷)が認可。
3月 三井不動産によるパークシティ守谷(現:みずき野地区)開発行為を許可。
4月1日 黒内小学校開校。
8月 パークシティ守谷区域を市街化区域に編入。
1980年(昭和55年)
2月 第7回町議会議員選挙が行われる。
4月 守谷町水道事務所・新大利根橋有料道路(現:新大利根橋)が完成。
7月 県立高校の誘致のため、町陳情団を結成し県に陳情。
9月 守谷町観光協会発会式が行われる。
10月 守谷町外1ケ村土地改良区事務所が竣工。第3回国勢調査。人口17,585人。
11月 県立高校の建設が大字大木地先に決定。
1981年(昭和56年)
大字守谷、大字小山のうちパークシティ守谷部分から大字東守谷を新設。
4月 土塔中央保育所が開所。守谷町公共下水道の一部供用が開始。下水道事務所・中央公民館が開館。常磐自動車道の町内部分全通。三井不動産による乙子高野地区(現:美園)開発の地元説明会が開催。
9月 仮称・北守谷第一小学校(現:御所ケ丘小学校)起工式。
1982年(昭和57年)
東守谷がみずき野一丁目〜八丁目に町名変更。
1月 守谷東地区(現:ひがし野)の土地区画整理事業組合のための発起人会を発足。常総ニュータウン南守谷地区の使用収益を開始。パークシティ守谷オープニングセレモニーが開催。
3月 町が工業団地造成について住宅・都市整備公団(現:都市機構)へ依頼する。
3月27日 新守谷駅開設。
4月1日 常総ニュータウン北守谷地区、三井パークシティ守谷(みずき野地区)入居開始。御所ケ丘小学校が開校。大山公園・立沢公園・もものき公園・ざくろ公園・自転車歩行者専用道路及び歩道橋の供用開始。
5月 県南広域水道用水供給事業(県企業局利根川浄水場)から浄水受入を開始。
6月 人口が2万人に達する。
9月 第9回町長選挙が行われる。守谷東地区土地区画整理事業組合準備委員会が発足。
1983年(昭和58年)
4月 都市計画道路北守谷板戸井線(現:新守谷駅前通り)・立沢公園テニスコート・みずき野中央公園・郷州文化財公園・どんぐり公園・かきのき公園及び都市計画道路郷州沼崎線の一部が供用開始。
4月1日 郷州小学校・愛宕中学校・守谷高等学校開校。また、町営(現:市営)新守谷駅第一自転車駐輪場が供用開始。
5月 関東鉄道常総線の守谷町内区間(南守谷駅〜新守谷駅間)の複線化が完了。
7月 北守谷地区で緑の街づくり協定が締結される。
9月 守谷町議会議員定数条例の一部改正が可決。議員数が22人から20人に削減。
10月 北守谷地区自転車歩行者専用道路の名称を「北守谷遊歩道」に決定。
1984年(昭和59年)
2月 第8回町議会議員選挙が行われる。
4月 北守谷遊歩道道びらき。第1回町民健康マラソン大会が行われる。学校給食センターが竣工。工業団地造成事業の地元説明会が野木崎・大木地区の地権者対象に行われる。
7月 住宅・都市整備公団による工業団地造成事業が決定。守谷消防署が竣工。
9月 仮称・守谷第三中学校(現:御所ケ丘中学校)起工式。
10月 県南広域工業用水道事業建設促進協議会が設立され、守谷町が加入。
1985年(昭和60年)
4月 都市計画道路取手西口北守谷線(現:常総ふれあい道路)の天神(大柏字天神)〜本宿(守谷字本宿。市制施行後は高野字本宿)まで開通。
4月1日 御所ケ丘中学校開校。また、文化会館が開館する。
5月24日 大字立沢より御所ケ丘、大字立沢・大字大山新田より久保ケ丘、大字立沢・大字大山新田・大字板戸井より松前台、大字板戸井・大字立沢より薬師台を新設。
6月 みずき野地区コミュニティ道路道びらき。南守谷土地区画整理事業(常総ニュータウン南守谷)の一部使用収益開始。字区域及び名称が決定し、新町名はけやき台・松ケ丘とすることが決定。
8月 みずき野パークスクエア〜北柏駅間の路線バスが運行開始される。
10月 第14回国勢調査。人口23,856人。
11月 北守谷土地区画整理事業の竣工式が行われる。また、稲戸井調整池総合開発事業計画について町議会が条件付きで決議する。常磐新線守谷ターミナルとまちづくり懇談会を設立。
12月 守谷町庁舎建設実行委員会発足。
1986年(昭和61年)
1月 南守谷土地区画整理事業施行区域・促進区域を変更。南守谷・緑の街づくり協定を締結。常磐新線整備検討会発足。町営薬師台住宅建設起工式が行われる。
2月 常磐新線建設促進都市連絡協議会発足。
4月 松ケ丘公園テニスコート供用開始。都市計画道路取手西口北守谷線(現:常総ふれあい道路)の本宿〜乙子まで開通。
6月 守谷町水道事業竣工式が行われ、全町給水が完了。稲戸井調整池総合開発事業促進連絡協議会設立準備会開催。
9月 守谷町市街地整備基本計画策定委員会が開催。第10回町長選挙が行われる。
12月 三井不動産が乙子高野地区計画区域の土地取得を開始。
1987年(昭和62年)
2月 野木崎・大木地区工業団地整備が区画整理方式に決定。
4月 南守谷駅が現在地に移転。
4月1日 北守谷ショッピングセンター(サンテラス守谷)開業。守谷児童館開館。
10月 常総ニュータウン南守谷の宅地分譲が開始。
1988年(昭和63年)
4月 取手西口北守谷線の愛称が「常総ふれあい道路」に決定。
8月 守谷東特定土地区画整理事業(ひがし野)、守谷町工業団地土地区画整理事業(緑)の都市計画決定。
1988年(昭和63年)
5月31日 松ケ丘、けやき台を新設。
9月 人口が3万人に達する。また、守谷久保ケ丘郵便局が開局。
1989年(平成元年)
4月1日 松前台小学校開校。
11月 面積を35.46 km2から35.63 km2に訂正。
1990年(平成2年)
10月 役場庁舎(現:守谷市役所)を大柏に移転。また、跡地に仲町行政サービスセンター竣工。
11月 西ドイツ(当時)マインブルク市との姉妹都市提携調印。国際交流センター開設。
1991年(平成3年) けやき台中学校開校。
1992年(平成4年)
1月 工業団地の名称が「もりや工業団地」に決定。
3月27日 人口が4万人に達する。
4月 守谷消防署南守谷出張所竣工
4月25日 郷州公民館開館。
7月 保健センター開設。
8月17日 みずき野郵便局開局。
1993年(平成5年)
4月1日 四季の里公園開園。
6月 心身障害者福祉センター「ひこうせん」開設。
8月 アメリカ、グリーリー市との姉妹都市提携調印。
10月 乙子高野土地区画整理事業(美園)起工。
10月29日 緑を新設。
1994年(平成6年)
4月1日 松ケ丘小学校開校。
7月 統一指定ごみ袋による分別収集完全実施。
11月 常総ふれあいスポーツセンター開館。
1995年(平成7年)
4月1日 久保ケ丘交番開所。大井沢小学校開校。
5月13日 守谷中央図書館開館。
6月 もりやまなびの里供用開始。
9月 守谷駅周辺一体型土地区画整理事業(中央)起工。
10月16日 守谷松ケ丘郵便局開局。
1996年(平成8年)
4月26日 高野公民館開館。
9月5日 福祉循環バス「やまゆり号」運行開始。
1997年(平成9年)
2月 過去12回に渡って行われていた守谷ロードレースが、守谷ハーフマラソンに発展。ハーフマラソンとしては初の第13回守谷ハーフマラソンが行われる。
9月 北園保育所開設。
1998年(平成10年)岩井成昭により、守谷・小平姉妹都市計画が浮上[13][14]。
3月17日 守谷町(当時)のホームページを開設。
1999年(平成11年)
2月 高速バス(東京駅行)開通。
4月22日 北守谷公民館開館。
9月25日 美園を新設。
2000年(平成12年)9月 人口が5万人に達する。
2000年(平成12年)10月 げんきサロン・みずき野開設。
2001年(平成13年)
7月 もりやファミリーサポートセンター開設。
9月 げんきサロン・北守谷開設。
10月 コミュニティバス「やまゆり号」運行開始。
2002年(平成14年)2月2日 市制施行。本町、松並、百合ケ丘を新設。
2004年(平成16年)12月25日 ひがし野を新設。
2005年(平成17年)8月24日 首都圏新都市鉄道つくばエクスプレス開業。
2008年(平成20年)
4月20日 南守谷児童センター「ミナーデ」開設。
4月26日 市民交流プラザ(北守谷児童センター「キターレ」)開設。
2009年(平成21年)4月8日 人口が6万人に達する。
2010年(平成22年)
2月27日 中央を新設。同時に大字守谷が消滅。
4月4日 つくば国際大学東風小学校開校。
2013年(平成25年)10月12日 松並より、ひがし野四丁目を新設。
2016年 (平成28年)10月22日 松並より、松並青葉を新設。

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