宇都宮市

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栃木県宇都宮市

宇都宮市(うつのみやし)は、関東地方の北部、栃木県の中部に位置する市で、同県の県庁所在地である。1996年4月1日より、中核市に指定されている。北関東最大の都市かつ、首都圏の都市としても10位の人口を擁する[1]。本市を中心市とする宇都宮都市圏は、政令指定都市を除く都市圏として日本最大である。

概要

宇都宮市は、栃木県の県庁所在地で、県の中南部、関東平野の中北部に位置する。中心市街地は日光連山から連なる山地が収束し平野部となる境界域、二荒山神社と宇都宮城址公園付近を中心に形成されている。市域には鬼怒川、田川、釜川、新川、姿川などの河川が流れ、河岸はその河岸段丘と沖積平野となっている。太平洋戦争の終結以来、宇都宮市域(旧宇都宮町や宇都宮市の区域)の拡大などもあって住民人口は激増し、2007年(平成19年)3月31日の河内郡上河内町および河内町の合併直前の宇都宮市人口は46万人前後に達していた。現在、市域人口は50万人を超えており、これは栃木県のみならず、北関東3県で最大である。本市を中心市とする宇都宮都市圏(都市雇用圏 - 2005年)の人口は約108万人と、中核市を中心とする都市圏としては日本国内最大規模となっている[注釈 1]。市の東部に大規模な内陸型工業団地が開発され、1984年(昭和59年)には関東地方では唯一「テクノポリス」に地域指定され各種メーカーの研究開発拠点が設置されるなど工業都市としての顔を有し、県内では工業製品出荷額が第1位、また年間商品販売額においては県内はもとより北関東第1位であり、北関東で最大、また国内でも有数の地域商工業都市となっている。また、首都圏に立地することに加え東北新幹線や宇都宮線(湘南新宿ライン・上野東京ライン)などの鉄道路線により都心とのアクセスが至便であることから、東京の衛星都市としての性格も有しており、都心通勤者を対象としたマンションが多数建設・供給されている。

本市西部で採掘される「大谷石」は、帝国ホテル建設などに使われ、関東大震災での安全実績が評価され、その後関東各地の建造物の建材として汎用された。また、近年本市は「餃子の街」として有名となり、観光客数が増加している。他にもカクテルやジャズなどを活用した地域おこしも進められている。

市章は「亀の甲」と漢字の「宮」を模したデザインを用いている。「亀の甲」は宇都宮城の別称「亀ヶ丘城」に由来する。市内にはこのほか「亀の甲坂」や「亀ヶ甲」、「亀の井」といった亀の付く地名等が見られる。歴史的には鎌倉亀ヶ谷に居したと云われる下野守源義朝にもちなむ。

2008年(平成20年)3月、秩序に欠ける市域拡大を見直し、メリハリのあるネットワーク型コンパクトシティ(連携集約型都市)を目指す第5次宇都宮市総合計画が策定され、既に開発された土地を最適化して集約都市を目指す計画が施行されている。その目玉事業として全国的に注目されているのは、旧市街地を東西に縦断する新交通網LRTの建設構想であり2016年度ごろの着工を目指す。また、本計画は宇都宮(二荒山神社)中心市街地を中央拠点として市の全機能を集約し、周縁部の地域拠点との間には連携ネットワークを構築し、さらに各地域には地域内完結型ネットワークを維持するというもので、ターゲットの2022年(平成34年)の達成を目指す。本計画に基づいて二荒山神社前の24階建て複合ビル事業や宇都宮駅西口のホテル・マンション複合ビル事業に着手しており、今後は宇都宮駅東側からの着手に向けて協議を進めている。なお、24階建て複合ビルは2010年に完成した。

2010年(平成22年)より、『住めば愉快だ宇都宮』をブランドメッセージとする全国へのPR活動もスタートしている。

歴史的には、当地は古代毛野国、令制国時代には下野国に属し、市域姿川流域には縄文時代の大集落跡である根古谷台遺跡があるなど、紀元前より人の生活の場であったことが知られている。また宇都宮市中心市街地は平安時代の下野国河内郡池辺郷で、その東端を流れる田川沿岸には旧古多橋駅が、また市東部郊外を流れる鬼怒川の沿岸には旧衣川駅があったと推定されており、さらに市域平野部には紀元4-7世紀に建造されたと推定される古代古墳や住居跡が多数存在し、戸祭山麓には下野薬師寺や河内郡衙で使用された屋根瓦を焼いた窯跡もあるなど、東山道沿道にあり地域人口の一集積地であったと考えられている。上代には池辺郷の鏡ヶ池畔には地の神を祀る社が建てられ、平安時代後期にはこれを『宇豆宮』『宇都宮明神』として祭祀し、鎌倉時代から戦国時代にかけてはこの神領を預かった神職家で北面武士でもあった一族が宇都宮氏を名乗り鎌倉御家人として宇都宮城に居し、城下に多数の仏教寺院を建立して宇都宮は東国の都であったと比喩されることもあった。この宇都宮社は、中央政権が関東・奥州を掌握するために東国に派遣した諸武門の奉幣を受け、藤原秀郷の平将門の乱、源頼義の奥州十二年合戦、源頼朝の奥州征伐、徳川家康の征夷大将軍就任など、その機会は日本史上の節目に前後して行われた。宇都宮城下は鎌倉街道中道(奥大道)や日光古道などが通る交通の要衝で、沿道は富で潤いその痕跡は日光古道沿線の西根や門前などに今も見られる。しかし世界情勢の不安定化に伴う鎌倉府の弱体化と後北条氏の台頭に拠って宇都宮氏も勢力を弱め、近接勢力の那須氏や日光山僧兵の侵略を受けて宇都宮は一時灰燼化する。宇都宮氏は拠点を大谷の多気山に移し、程なく豊臣秀吉の小田原征伐に続く宇都宮仕置よって宇都宮に復帰するが、秀吉の死に前後して改易となった。その後宇都宮城主となった浅野長政や蒲生秀行は城下に紺屋町、日野町といった商人街を作り、また征夷大将軍となった徳川家康は宇都宮社に寄進してこれを復興するとともに、宇都宮を古道奥州道・日光道の宿駅に命じ、宇都宮城主奥平家昌や本多正純が宿場機能を併せ持つ近世宇都宮城下町を整備し、宇都宮宿は五街道のうち日光街道・奥州街道の二道の追分となり、街道一の繁盛地として大いに賑わった。当時の宇都宮宿は地方宿としては日本国内最大規模の宿場町で、五街道では東海道大津宿、府中宿(家数3,500軒、人口14,000人級)や熱田宿、日光街道千住宿(家数2,000 - 3,000軒、人口10,000人級)には及ばないものの、東海道品川宿や四日市宿、桑名宿、岡崎宿、浜松宿、島田宿、奥州街道白河宿、甲州街道八王子宿(家数1,200 - 1,800軒、人口6,000 - 7,000人級)と同等の規模を擁していた。市域を通る二つの街道には、ほか雀宮宿、徳次郎宿、白沢宿が置かれた。幕末には戸田氏が宇都宮藩主となり、山陵志を著わした蒲生君平を輩出するなど王政復古に寄与し、宇都宮戦争によって城下は再び灰燼と帰すが、明治期には明治天皇によりその業績が称えられた。近代には奥州街道に代わって明治国道6号(現国道4号)が設けられ、第14師団の本営が置かれると本営のあった国本村戸祭まで明治国道60号(大正国道29号、現国道119号)も開通した。宇都宮は軍関係の需要が増え軍都として繁栄したが、太平洋戦争末期の宇都宮大空襲で三度目の灰燼となった戦後は、内陸型近代工業を中心とする近代産業都市として発展した。

現在、宇都宮城、清巌寺鉄塔婆、一向寺汗かき阿弥陀、宝蔵寺およりの鐘、興禅寺木造釈迦如来坐像、旧篠原家住宅、その他大谷石建築や八幡山公園の大楠、旭町の大いちょう、祥雲寺のしだれ桜などの歴史遺産・自然遺産の保全活動にも手が尽くされ、2007年(平成19年)には宇都宮城址公園が日本の歴史公園100選に選定され、また2009年(平成21年)4月10日には1960年(昭和35年)3月15日の地域指定より一度も公園計画が策定されて来なかった宇都宮県立自然公園にも公園計画書が制定されている。

歴史

宇都宮は、蝦夷平定のためこの地に足を踏み入れた豊城入彦命が開祖といわれており、当時「池辺郷」といったこの地に命を神として祀った宇都宮二荒山神社(社伝によると西暦353年創祀)の門前町として、また二荒山神社の神官としてこの地に赴任した摂関家藤原北家道兼流・宇都宮氏の直轄地として栄えた。

「宇都宮」という都市名と、嫡流「宇都宮氏」の名称は、延喜式神名帳にある下野国唯一の一宮名神大社である「二荒山神社」の別号「宇津宮大明神(宇都宮大明神)」に由来するというのが一般的だが、他にも「現の宮」、「遷しの宮」、「討つの宮」など諸説がある。江戸期の森幸安の「下野州河内郡宇都宮地図」によると、「宇」とは「宇宙」つまり「太廣」の意で、また「卯」と同じ「東」の意、「都」は「京(みやこ)」と同訓、「宮」は「宮殿」の意味であり、即ち(当時は関東の中心は江戸であったが)宇都宮とは古くから関東の都である、とある。宇都宮二荒山神社はその武徳が尊ばれ、かつてこの地を訪れた田原藤太藤原秀郷(藤原北家魚名流)や武家源氏の祖である源頼義・八幡太郎源義家父子(河内源氏)、源頼朝(河内源氏)、徳川家康(河内源氏義家流新田氏)等の名将らも戦勝祈願し、土地・金品等が寄進されたと言われる。

律令制度が整備されてからは、道路としての東山道、鎌倉時代には鎌倉街道の中道が通っていた。田原街道の田川橋梁は古来鎌倉橋と呼ばれてきた。

その後、慶長3年(1598年)に宇都宮に入封された蒲生秀行(12万石)が日野町や紺屋町を造成し、宇都宮氏の居館(中世宇都宮城)は近世宇都宮城へと継承された。さらに小山藩3万石から加増を受け15万5千石で宇都宮藩に入封された徳川家康の腹心である本多正純が城下町を含めた宇都宮城改築の大普請を行い、城下町・宇都宮の礎を築いた。また、江戸時代には日光街道・奥州街道が通る宿場町・宇都宮宿としても繁栄した。

江戸時代後期には戸田氏が6-7万石で入り、幕末まで続いた。宇都宮新石町出身の蒲生君平は天皇家陵墓に関する調査研究結果を山陵志にまとめて幕府・朝廷より評価され、その功績で宇都宮藩は天皇陵墓修復工事を任され、当時の難局を回避した。

明治維新では宇都宮城周辺が戊辰戦争の戦場となり、また日露戦争後は軍備拡大により第14師団司令部が置かれ、太平洋戦争が終わるまで軍都と呼ばれ軍需産業も進出したが、1945年(昭和20年)7月12日の宇都宮空襲では600名を超える市民が死亡し、主要な都市構造物が焼失。残った遺構の多くも戦後の戦災復興事業の過程で消失した。

有形の歴史的遺産は時代が生まれ変わるごとに破壊され、現在まで残されているものはごく僅かであるが、宇都宮二荒山神社を礎として、さまざまな文化を受け入れる温故知新の社会構造は、脈々と現代に受け継がれている。

平安時代から室町時代まで
宇都宮二荒山神社の門前町であり、二荒山神社の神職者として赴任した藤原道兼流で嫡流宇都宮氏(関東の豪族下毛野氏や八田氏、貴族中原氏の流れを汲むとも言われる)の居館(宇都宮城)が置かれた。日本三代実録の貞観11年2月28日(869年3月18日)の記述には「二荒神加正二位」とあり、宇都宮二荒山神社は地方社としては最高位の格式が与されていた。

また、吾妻鏡の文治5年7月25日(1189年9月14日)の記述には奥州征伐に向かった源頼朝が(畠山重忠以下、小山朝政や宇都宮朝綱・業綱父子といった中路軍を率いて)宇都宮(古多橋駅)に宿し宇都宮社(宇都宮二荒山神社)に戦勝の願を立て奉幣したとあり、宇都宮二荒山神社が当時の武門から厚い崇敬を受けていたことが推察される。

宇都宮二荒山神社の神職者の地位にあったとされる宇都宮氏は、この地に在る間も京都との交流を続け、この地に中央文化の息吹を吹き込み続け、鎌倉時代には宇都宮頼綱が宇都宮歌壇を築いて小倉百人一首の成り立ちに関わるなど、文化教養の養生において名跡を残した。また、源頼朝をして「東国一の弓取り」と言わしめた宇都宮朝綱、元寇の際に討伐軍十万の総大将として九州へ赴いた宇都宮貞綱、元弘の乱で楠木正成と互角に渡り合った宇都宮公綱など、宇都宮氏は武門としても歴史にその名を残している。

宇都宮氏の名声の影には、始祖藤原宗円以来の宇都宮氏の郎党「紀清両党」(益子氏と芳賀氏)の力があった。宇都宮貞綱が正和元年(1312年)母の十三回忌の供養の折に鋳造し、菩提寺である東勝寺に奉納した鉄製塔婆は、東勝寺廃寺に伴い芳賀高継創建の清巌寺で保存され、現存する日本最古かつ最大の鉄製塔婆として国の重要文化財に指定されている。

宇都宮氏は京との結びつきを保ちつつ鎌倉時代には鎌倉幕府の評定衆や引付衆として、また室町時代には室町幕府の足利尊氏の意向によって下野国守護職等(上野国・越後国などの守護職も)を兼務し中央政府を支えるとともに、鎌倉府(足利氏)から関東八屋形に列せられ、鎌倉府、関東管領(上杉氏)とともに関東の支配体制の一翼を担い、主に毛野川流域一体の治安維持に務めた。毛野川下流にあたる下総国 - 常陸国(現在の茨城県南部)を治めた常陸国司の小田氏も宇都宮氏の庶流である。

室町時代中期には上総国守護職、京都扶持衆に任じられるなど幕府に重用されたが、幕府と鎌倉府の対立に巻き込まれ、鎌倉府から討伐されるなど弱体化しつつあった。

室町時代後期には関東の戦国時代のきっかけとなった享徳の乱が勃発。宇都宮等綱は上杉氏側につくが古河府(かつての鎌倉府)支持の小山持政との戦いに敗れ劣勢となり、次代の宇都宮明綱は幕府側から鎌倉府側へと方針を変えて難を逃れた。

戦国時代
戦国時代、国司・宇都宮氏は擡頭する武士団を牽制して関東一帯の治安維持に寄与し、結果的に戦国大名と評される勢力を持っていた。

前期
戦国時代初期には「宇都宮氏中興の祖」・「奇蹟の武人」などと呼ばれた名将宇都宮成綱が現れ、宇都宮氏を戦国大名へと脱皮させ、独立しつつあった宇都宮一族や周辺勢力を巧みに取り込み、内乱を制し、家臣団の立て直しを行うなど勢力を回復させた。16世紀初頭には永正の乱が勃発すると、成綱は娘婿で次期古河公方候補である足利高基の古河公方擁立を企て勢力の拡大を狙った。その過程で対立した宿老中筆頭の芳賀高勝を永正9年(1512年)に討ち宇都宮錯乱という大きな内乱が発生し、2年かけて鎮圧した。その後、下野進出を狙う足利政氏支持の佐竹義舜と北関東の覇権を巡って争い、永正11年(1514年)に永正の乱の事実上の決戦である竹林の戦いで勝利した。その2年後には縄釣の戦いで再び佐竹義舜を破り、さらには敗走する佐竹軍を追い常陸侵攻も行っている。成綱は北関東の覇権争いの勝利と古河公方の擁立を同時に成就させることに成功した。短い間だが、宇都宮氏は成綱の代に北関東最大の勢力となり、北関東の覇者たる存在として君臨した。

しかし、栄光の時代も長くは続かなかった。成綱没後、次代の宇都宮忠綱は結城政朝と戦い敗れてしまう。さらには同時期に大きな内訌(大永の内訌)が発生し、忠綱に反抗的な家臣らが結城政朝に通じて、成綱の末子である宇都宮興綱を擁立し、忠綱を追放した。その後は家臣団による専横が長く続き、宇都宮氏は大きく弱体化してしまった。

宇都宮尚綱は那須高資と戦って敗れ、壬生綱房が幼少の宇都宮広綱から宇都宮城を奪取したが、忠臣芳賀高定の働きにより広綱は宇都宮城を奪還した。この時、鬼怒川東岸の飛山城が前線基地として使われた。宇都宮周辺の城郭の様相が当時の度重なる攻防の歴史を窺わせる。

後期
戦国時代後期になると、古河府足利氏の勢力が弱まり後北条氏が小田原から南関東に台頭し、その勢力は小山にまで迫り、宇都宮氏は常陸国の佐竹氏とともに後北条氏を牽制する一大勢力となった。中央政府から派遣された豊臣秀吉が小田原を攻めた際にはこれに応じ北条氏を破った。後北条氏の侵攻が過激になってくると宇都宮国綱は本拠を宇都宮城から軍事に適した山城の多気山城に移し、攻撃に備えた。多気山城は関東の山城では最大規模の山城であり、歴史的価値は八王子城に匹敵するという。その後秀吉を小田原城から宇都宮城に迎え、秀吉は宇都宮の地で東北・関東の支配構造を決定した(宇都宮仕置)。国綱は秀吉から羽柴姓を授かるなど宇都宮家と秀吉の関係は良好で、朝鮮攻めの際にも国綱は秀吉に追従した。しかし慶長2年(1597年)の太閤検地の際に秀吉の姉婿であった浅野長政により石高詐称の嫌疑をかけられ改易された。背景には、旧来の勢力を一掃し、新たに功績を成した者に褒美として与える領地を確保する方針があったとされる。

宇都宮氏の後に入封されたのは改易に関わった浅野長政であったが、その後は蒲生氏や奥平氏などが入れ替わり支配した。

江戸時代
江戸時代になると徳川家康の廟所となった日光へ向かう日光街道と奥州白河へ向かう奥州街道が整備され、二つの街道の分岐点(追分)となる宇都宮宿の宿場町ともなった。

江戸時代初期の元和8年(1622年)には、徳川家康の腹心であった本多正純が宇都宮藩15万5千石で入城して城下町を含め中世宇都宮城を大改築し、周囲14km、高い土塁(一部石垣)と濠、土塁上には8つの櫓を備える近世平城(輪郭梯郭複合式平城)の縄張りとし、関東七大名城と呼ばれるほどの大城郭へと生まれ変わり、現在の市街地の基本構造を築いた。しかし正純はその後宇都宮城無断改修を咎められて(宇都宮城釣天井事件は架空の事件)改易され、その後は藩主が奥平氏、松平氏や戸田氏、本多氏、阿部氏など目まぐるしく交代した。

この間も、大名の参勤交代や日光東照宮の造営などによる往来も多く、重要拠点として「小江戸」と呼ばれるほどに栄えた。

幕末
江戸時代後期は戸田氏が入封し幕末まで宇都宮を治めた。新石町(現・小幡一丁目)に生まれた蒲生君平は山陵修復を志して天皇陵を調査研究し、山陵志を執筆した。安政3年(1856年)には宇都宮藩藩主・戸田忠恕が山陵奉行に任ぜられ、歴代天皇の陵墓修復の任に当たった。君平はその後明治天皇より功績を讃えられ、その命により花房三丁目に勅旌碑が建てられ、また塙田の地に蒲生神社として祀られることとなった。

慶長4年(1868年)の戊辰戦争の折には、藩主・忠恕は新政府方に就くが、大鳥圭介・土方歳三ら率いる旧幕府軍(桑名藩隊、新選組、伝習隊など)の侵攻に退散を余儀なくされた。宇都宮城に入った旧幕府軍と巻き返した新政府軍(長州藩、薩摩藩、大垣藩、鳥取藩、土佐藩などの各隊)は、宇都宮市六道の辻 - 宇都宮城・二荒山神社付近で激戦を繰り広げ、物量に長じた新政府軍は新田町の延命院と桂林寺に砲台を並べ、旧幕府軍が陣取る宇都宮城や明神山(二荒山)、八幡山に砲弾を浴びせ、優勢となった新政府軍が宇都宮の地を旧幕府軍より奪還、旧幕府軍は明神山から日光方面に向け退却した。この折の戦火で、城下町を含む宇都宮城下の主たる建造物が焼失してしまった(宇都宮城の戦い)。この宇都宮戦争における戦没者を弔うために、市内のいたる寺院に慰霊碑が建立された。

明治維新から第二次大戦まで
慶応4年(1868年)6月(旧暦):古河にあった下総野鎮撫府が宇都宮に移動される。また、真岡天領が真岡県となるとともに、初代真岡知県事・鍋島道太郎陣屋が一時宇都宮に置かれる。
明治2年(1869年)6月(旧暦):版籍奉還により宇都宮藩藩主戸田忠友が初代宇都宮藩知事に就任する。
明治4年7月14日(旧暦)(1871年8月29日):廃藩置県により宇都宮藩が廃止され、宇都宮県が設置される。宇都宮県庁舎が宇都宮城内に置かれる。同年、日本陸軍東京鎮台第四分営第七番大隊が宇都宮城跡の宇都宮県庁舎に入営し、このため宇都宮県庁は城外に移転することとなり一時西原安養寺に置かれた。
明治4年11月14日(旧暦)(1871年12月25日):府県再編により下野国北半部を管轄する宇都宮県が改めて設置されて、引き続き県庁が置かれる。県庁舎は梅が丘。
1873年(明治6年)6月:宇都宮県が廃止され、栃木県へ併合される。
1874年(明治7年):日本陸軍が改組となり、宇都宮には東京鎮台歩兵第2連隊の連隊本部が設置され、従前の東京鎮台第四分営第七番大隊は同歩兵第2連隊第2大隊に改組となり、東京鎮台第1師団隷下となる。
1876年(明治9年)6月:明治天皇が日光御行幸の際に宇都宮城で陸軍練兵を天覧する。現在の馬場通り2丁目にあった向明館が御在所となり宇都宮二荒山神社にも参詣。
1878年(明治11年):郡区町村編制法が施行。
1880年(明治13年)11月:陸軍東京鎮台第1師団の行軍演習が行われる[注釈 2]。
1881年(明治14年)7月:陸軍東京鎮台第1師団の大軍事演習が行われる[注釈 3]。
1883年(明治16年)10月:三島通庸が栃木県令となり、現在も宇都宮市中心市街地を東西に貫く大通りの開通工事を行う[注釈 4]。
1884年(明治17年)1月:県庁が栃木から宇都宮に移転。同年6月、東京鎮台歩兵第2連隊本部が佐倉に移動となる。
1885年(明治18年)2月24日:内務省告示第6号にて、東京市(日本橋)から函館港までの区間が国道6号に制定される。市内経路は、雀宮から不動前、材木町、伝馬町、日野町、上河原、白沢街道を通って白沢に至る区間。
1885年(明治18年)4月:栃木第一中学校(現・栃木県立宇都宮高等学校)が県庁の宇都宮移転に伴い塙田地内に移転。
1885年(明治18年)7月:日本鉄道大宮駅 - 宇都宮駅間が開通し、宇都宮駅で日本初の駅弁が販売される。
1889年(明治22年)4月:町制施行。宇都宮町。町域は現在の本庁管内。同年12月31日の居住人口は30,698人で、当時の関東地方の市町村内では東京市・横浜市に次ぐ第3位、全国では第28位であった.なお、町村としては全国第1位であった[注釈 5]。
1890年(明治23年)8月:日本鉄道宇都宮駅 - 今市駅間が開通。
1892年(明治25年)10月:明治天皇が御行幸し市内向明館が御在所となる。天皇天覧の下、宇都宮平出原で第1回陸軍特別大演習が行われ、陸軍東京第1師団、同仙台第2師団、および近衛師団が参加。総勢3万人による大日本帝国初の大軍事演習となる。これ以降、御行幸(御幸)地の平出原は御幸が原と呼ばれるようになる。
1893年(明治26年)7月:栃木第一中学校、河内郡姿川村(現在の宇都宮市滝の原)に新築移転。
1896年(明治29年)4月1日:市制施行。宇都宮市。人口約3万5千2百人、戸数約7千戸。市域は現在の本庁管内。
1896年(明治29年)10月17日:宇都宮旧城内広場において、旧制中学野球部同士の全国初の試合とされる旧制宇都宮中学(現・宇高)対旧制水戸中学(現・水戸一高)の試合が開催される。
1899年(明治32年)6月:宇都宮電灯会社が、町内に電力供給を開始する。
1902年(明治35年)8月:早稲田大学野球部が宇都宮にて第一回夏季練習を行う[7]。
1906年(明治39年):八幡山に塩田園が開園。
1906年(明治39年)12月:市内に電話が開通。
1908年(明治41年)11月:陸軍第十四師団が移駐、師団本部が河内郡国本村戸祭に置かれる(現・国立栃木病院)。
1909年(明治42年)10月:日本鉄道が国有化され、上野駅 - 青森駅間の路線名称を東北線、同じく宇都宮駅 - 日光駅間を日光線とする。
1911年(明治44年)2月14日:市章制定。[8]
1911年(明治44年)3月4日:内務省告示第14号にて、東京市(日本橋)から第十四師団(国本村)までの区間(現在の清住町通りと桜通り北側)が国道60号に制定される。
1912年(明治45年)4月:市庁舎が旭町に落成。
1915年(大正4年):今市浄水場、第6号接合井、戸祭配水場配水池が竣工。
1916年(大正5年)3月:上水道の給水が開始される。
1920年(大正9年)4月1日:内務省告示第28号にて、市内を通る国道6号は国道4号、国道60号は国道29号に改号される。
1922年(大正11年)10月:宇都宮高等農林学校(現宇都宮大学農学部)創設。
1927年(昭和2年)4月1日:塩田園を市が買収、拡張整備した八幡山公園が開園。
1931年(昭和6年)8月:東武鉄道宇都宮線開通。
1934年(昭和9年)1月1日:河内郡姿川村鶴田の一部を編入。
1936年(昭和11年)3月:県庁舎が火災で焼失。
1938年(昭和13年)10月:新県庁舎落成。
1939年(昭和14年)4月1日:河内郡城山村大字駒生の一部を編入。
1940年(昭和15年)8月:第十四師団が満州に移駐、留守第十四師団を基幹とする第五十一師団が新設される。
1942年(昭和17年)7月1日:河内郡平石村大字峰を編入。
1944年(昭和19年)1月:中島飛行機宇都宮製作所が操業開始。
1945年(昭和20年)1月20日:留守第五十一師団司令部が独立し、宇都宮師管区司令部が開設される。
1945年(昭和20年)6月:宇都宮師管区司令部が八幡山地下壕に移設される。
1945年(昭和20年)7月12日:宇都宮大空襲により市街の大半が焼失。
戦後
昭和中期
1947年(昭和22年)4月1日:栃木師範学校男子部附属中学校が宝木に、女子部が戸祭に設置される。
1947年(昭和22年)9月:人口10万人に到達。
1948年(昭和23年):栃木県総合運動公園の整備事業がはじまる。
1949年(昭和24年)4月1日:河内郡豊郷村大曽並びに河内郡横川村大字平松の一部を編入。
1950年(昭和25年)3月:宇都宮競馬場完成。
1951年 - 1955年:周辺の町村を編入合併する。
1951年(昭和26年)6月1日:河内郡平石村大字上平出及び上越戸新田並びに河内郡豊郷村大字竹林及び大字今泉新田の一部を編入。
1952年(昭和27年)4月1日:河内郡横川村大字江曽島の一部並びに河内郡姿川村大字西川田及び鶴田の一部を編入。
1952年(昭和27年)6月1日:河内郡国本村大字戸祭及び宝木の一部を編入。
1953年(昭和28年)6月1日:河内郡豊郷村大字竹林及び大字今泉新田の一部を編入。
1954年(昭和29年)8月1日:河内郡平石村を編入。
1954年(昭和29年)8月10日:芳賀郡清原村を編入。
1954年(昭和29年)9月25日:河内郡横川村を編入。
1954年(昭和29年)10月1日:河内郡瑞穂野村を編入。
1954年(昭和29年)11月1日:河内郡豊郷村、国本村、城山村、富屋村、並びに篠井村の一部(分村)を編入。
1955年(昭和30年)4月1日:河内郡姿川村並びに雀宮町を編入、人口20万人に到達。
1953年(昭和28年):栃木県総合運動公園がオープン。
1955年(昭和30年):栃木会館がオープン。
1957年(昭和32年)4月1日:古賀志町の一部を鹿沼市へ編入。
1958年(昭和33年):御本丸公園が開園。
1961年(昭和36年)11月:宇都宮工業団地(平出工業団地)の分譲開始。
1963年(昭和38年)4月1日:ラジオ栃木(栃木放送)開局。
1965年(昭和40年):栃木県体育館がオープン。
1965年(昭和40年)8月:下水道終末処理を開始(田川下水処理場)。
昭和後期
1970年(昭和45年)4月:市花を制定。栃木県交響楽団が結成され、定期演奏会が始まる。
1972年(昭和47年):栃木県体育館プール館がオープン。
1972年(昭和47年)4月:市旗を制定。[9]
1972年(昭和47年)8月:人口30万人に到達。
1972年(昭和47年)11月:東北自動車道宇都宮IC開通。栃木県立美術館がオープン。
1974年(昭和49年)4月:清原工業団地の分譲開始。
1975年(昭和50年)6月:宇都宮中央卸売市場開設。
1975年(昭和50年)8月:第1回「ふるさと宮まつり」開催。
1976年(昭和51年):市森林公園がオープン。
1977年(昭和52年):栃木県体育館武道館と弓道場がオープン。
1980年(昭和55年)4月:市民憲章を制定。市立体育館、市文化会館、市サッカー場が開設される。
1980年(昭和55年)10月:「栃の葉国体」開催、UHF電波中継塔(宇都宮タワー)が完成。
1981年(昭和56年)7月:市立図書館開館。
1981年(昭和56年)10月:栃木県立美術館常設展示館がオープン。
1982年(昭和57年)2月:マヌカウ市(ニュージーランド)と姉妹都市提携。
1982年(昭和57年)6月23日:東北新幹線宇都宮駅開業。
1982年(昭和57年)10月10日:栃木県立博物館がオープン。
1984年(昭和59年)5月:テクノポリス(技術集積都市)に指定される。
1984年(昭和59年)8月:清原工業団地内で「'84とちぎ博」開催。
1984年(昭和59年)9月:チチハル市(中華人民共和国黒竜江省)と友好都市提携。
1984年(昭和59年)10月:人口40万人に到達。
1986年(昭和61年)4月:市制90周年。市木を制定。
1986年(昭和61年)10月:現在の市庁舎が開庁。
1988年(昭和63年)7月:清原中央公園内に宇都宮清原球場と清原体育館が建設される。
1989年(昭和64年)1月1日:河内郡上三川町と境界変更。
平成期
1989年(平成元年)4月:帝京大学理工学部、作新学院大学、宇都宮文星短期大学の3校が開設される。
1989年(平成元年)5月 オルレアン市(フランス)と姉妹都市提携。
1990年(平成2年):東北本線の上野駅 - 黒磯駅間に宇都宮線の愛称が付される。
1990年(平成2年)6月1日:河内郡河内町と境界変更。
1990年(平成2年)8月:世界選手権自転車競技大会ロードレース競技を開催(日光宇都宮道路及び市森林公園周辺)。
1992年(平成4年)6月:タルサ市(アメリカ合衆国)と姉妹都市提携。
1993年(平成5年):専用球技場 栃木県グリーンスタジアムが完成。
1993年(平成5年)1月1日:鹿沼市及び今市市と境界変更。
1993年(平成5年)8月:全国高等学校総合体育大会(インターハイ)の開催。
1995年(平成7年)8月:ピエトラサンタ市(イタリア)と文化友好都市提携。
1995年(平成7年)10月:「第10回国民文化祭とちぎ95」開催。
1995年(平成7年)12月1日:河内郡上三川町と境界変更。
1996年(平成8年)4月1日:市制100周年、中核市に指定される。
1996年(平成8年)7月:平成記念子どものもり公園・冒険活動センターがオープン。
1996年(平成8年)9月:市農林公園「ろまんちっく村」がオープン。UCIワールドカップ最終戦開催(アジアで唯一の開催)。
1996年(平成8年):市外縁部を一周する宇都宮環状道路が全線開通。
1997年(平成9年)3月:宇都宮美術館がオープン。
1999年(平成11年)4月:文星芸術大学開学。
1999年(平成11年)9月:市役所本庁窓口業務の一部を19時まで延長。
2000年(平成12年)7月:北関東自動車道栃木都賀JCT - 宇都宮上三川IC間が開通。市総合運動公園予定地(現・みずほの自然の森公園)で全国都市緑化フェア「マロニエとちぎ緑花祭2000」開催。
2001年(平成13年)3月:クリーンパーク茂原が開設される。
2001年(平成13年)8月1日:河内郡上三川町と境界変更。
2001年(平成13年)8月:宇都宮市茂原健康交流センター「蝶寿コデランネ」がオープン。
2001年(平成13年)12月:湘南新宿ライン開業と同時に市内各駅に列車乗り入れ開始。
2003年(平成15年)3月24日:宇都宮北道路の供用を開始。
2003年(平成15年)4月:宇都宮市教育センター開設。
2003年(平成15年)7月1日:鹿沼市と境界変更。同日、河内郡上三川町とも境界変更。
2003年(平成15年)7月:宇都宮上三川IC周辺に商業流通団地「インターパーク宇都宮南」が町開き。
2005年(平成17年)2月1日:芳賀郡芳賀町と境界変更。
2005年(平成17年)11月8日:宇都宮北道路の制限速度を80km/hrに引き上げ。一般道路の制限速度として70km/hrを超えた初めての例。
2006年(平成18年)4月:宇都宮共和大学(旧那須大学)宇都宮シティキャンパスが開設。
2006年(平成18年):オリオンスクエア(オリオン市民広場)がオープン。
2007年(平成19年)3月25日:宇都宮城の一部を復元、宇都宮城址公園がオープン。
2007年(平成19年)3月31日:河内郡河内町並びに上河内町を編入合併。人口50万人に到達。
2007年(平成19年)7月31日:宇都宮二荒山神社前の上野百貨店本館跡にうつのみや表参道スクエアがオープン。
2008年(平成20年)1月:栃木県庁新庁舎完成
2011年(平成23年)3月11日:東北地方太平洋沖地震が発生し、震度6強を観測した。この震災で災害救助法が適用された。負傷者8名、建物被害8426棟。
2011年(平成23年)3月26日:宇都宮線・湘南新宿ライン雀宮駅の橋上新駅舎が完成。同日使用開始。
2011年(平成23年)4月4日:宇都宮駅西口で大型LCD式のバス総合案内システム使用開始。[10]
2012年(平成24年)8月1日:鹿沼市と境界変更。
2016年(平成28年)4月1日:宇都宮市消防本部が宇都宮市消防局に名称変更
2016年(平成28年)10月23日:宇都宮市連続爆発事件発生。
2017年(平成29年)3月8日:コミュニティFMミヤラジ開局。

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