鶴ヶ島市

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埼玉県鶴ヶ島市

概要

鶴ヶ島市(つるがしまし)は、埼玉県中部にある人口約7万人の市である。

歴史

旧石器時代の遺跡が発見されており、青棚遺跡、鶴ヶ丘遺跡、若葉台遺跡、雷電池東遺跡、お寺山遺跡、鶴ヶ島中西遺跡、一天狗遺跡、の七つの遺跡が確認されている[2]。雷電池など飯盛川・大谷川の周辺に山田遺跡、新右エ門遺跡など縄文時代の遺跡が見出されている[3]。古墳時代にはいくつかの古墳が築造されており、なかでも鶴ヶ丘稲荷神社古墳は古墳時代末期としては大きなものである。富士見地区の若葉台遺跡は8 - 9世紀にかけて比較的大規模に発達した遺跡であり[4]、律令体制下における地域拠点(一説には入間郡衙)となっていたことが想像される。

中世には小田原北条氏の勢力下に入っており、特に戦国期の落武者を祖とする伝承を持つ旧家が多くあるが、史料上に目立った活動は記録されていない。江戸時代初頭に川越藩領となるが、その後は村落ごとに天領あるいは旗本領などになる。古くからの畑作地帯であるが、元文年間には盛んに新田開発が行われた。日光脇往還が通っており荷役などの負担が厳しかったうえ、中山道桶川宿の助郷を命じられ免除嘆願を行った記録がある。

廃藩置県により、入間県・熊谷県を経て1876年(明治9年)、埼玉県に編入される。市制町村制の施行以来合併はしておらず、1950年からの約50年間に人口がほぼ10倍に急増し、単独町制 - 単独市制へと至った。

沿革
1884年(明治17年) - 脚折村・三ッ木村・三ッ木新田・五味ヶ谷村・戸宮村・大塚野新田・高倉村・町屋村・藤金村・上新田村・中新田村・下新田村・上広谷村・太田ヶ谷村による上広谷村連合が組織され、脚折に連合戸長役場が置かれる。
1889年(明治22年)4月1日 - 町村制施行に伴い、上広谷村連合を構成する14村をもって高麗郡鶴ヶ島村が成立する。この名は室町時代に脚折近くの島状の地に鶴が巣篭もったという祥伝にちなんでいる。
1896年(明治29年)3月29日 - 高麗郡が入間郡に編入され、入間郡鶴ヶ島村となる。
1942年(昭和17年)12月1日 - 陸軍坂戸飛行場造成により分断されたため、大字戸宮を入間郡勝呂村(現・坂戸市)へ編入。
1949年(昭和24年) - 小学校への通学問題を発端に、中新田・上新田・町屋の3大字の住民が鶴ヶ島村から分離し大家村(現・坂戸市)への編入を決議。村議会は分村陳情を否決したが、特に町屋地区では大家村との結びつきが強く分村問題が落ち着くまでには4年を要した。
1954年(昭和29年) - 埼玉県の主導により周辺4ヵ村とともに坂戸町への合併が計画されたが、鶴ヶ島村は単独でも人口7000人弱を擁し財政状態も適正であったことから離脱する。高萩村(現・日高市)・霞ヶ関村(現・川越市)との合併や、大家村との合併を模索する動きもあったが不調に終わる。
1955年(昭和30年)4月19日 - 坂戸町もしくは川越市との合併を巡って村内世論が分裂したため、村議会にて独立維持決議が可決される。
1957年(昭和32年)3月12日 - 埼玉県から坂戸町との合併が勧告される。これに対抗して、11月に工場誘致などの対策を含む「鶴ヶ島村建設計画」を議決。1959年勧告解除。
1966年(昭和41年)4月1日 - 町制施行により、鶴ヶ島町となる。
1991年(平成3年)9月1日 - 市制施行。
地名
語源は『鶴ヶ島町史(文化・地誌篇)』(1988年)による。

旧村名
脚折(すねおり)
日本武尊の東夷征伐の折に人馬が脚を折ったことにちなむといわれている。砂礫の多い地という意味で砂居(すなおり)または曽根居(そねおり)の転訛か。高倉・太田ヶ谷などは元は脚折郷に属しており、この近辺の中心的集落であった。北条氏配下の所領として名が見え、白鬚神社・善能寺はともに創建不明だが少なくとも15世紀まで遡る。日光脇往還が通っており、坂戸宿にほど近い。高麗郡加治領。
高倉
奈良時代の公卿高倉福信に因むという説が伝えられているが、証拠に乏しい。日光脇往還と川越越生道が交差する地である。元文年間に武蔵野一帯の開発に携わった代官川崎平右衛門定孝の陣屋が設けられた。高麗郡川越領。
上新田
中新田
下新田
17世紀半ばに分村した高倉村の開墾地で、上中下は用水の上流・下流に対応している。ただし、さらに古い時代にも集落は存在しており、戦国時代に一度廃れたものと思われる。
町屋
中世鎌倉街道沿いに散見される地名であり、普段は人家はなく定期的に市が立つ場所であったとされる。高麗郡高麗領。上新田・中新田・町屋の3大字の住民は1949年(昭和24年)、隣接する大家村へ編入を希望したがならなかった。
太田ヶ谷
太田道真・道灌父子との縁で名付けられたという伝承があるが、陸稲畑作が主な近辺と比して水田地帯であったことから、単純に大きな田のある地・集落という意味と思われる。川越越生道が通っている。高麗郡川越領。
三ツ木
三ツ木新田
中世ごろの遺跡が多く見出される。三ツ木新田は幕末に三ツ木から分離されたが、実質上は三ツ木村に属したままであった。高麗郡川越領。
藤金
大下地区の藤株稲荷には大きな藤の木があったという伝承があり、藤ヶ根から転じたものか。北条氏配下の所領として名が見える。高麗郡川越領。
上広谷
五味ヶ谷
もとは下広谷(現・川越市)とともに、広谷村という1つの村だった。村山党の末裔のなかに廣屋氏があり、その居所であったと考えられる。その後、北条氏配下の所領に「広野」という地名が見えている。五味ヶ谷は江戸時代初期に広谷村から分村したと伝えられ、語源は湿地を意味する「ゴミ」と、地区や集落を意味する「カヤト」から来ているといわれている。実際に五味ヶ谷は鶴ヶ島市域の中でも最も標高の低い地域である。高麗郡広谷郷。
消滅した旧村名
大塚野新田
大塚はかつて存在したという前方後円墳に因んでおり、古代には大規模な集落が存在していたが、その後原野となり元文年間に開墾したという。高麗郡勝呂郷。第二次世界大戦中に坂戸飛行場として使用された後、新たに開拓されて富士見となった。
戸宮
北条氏配下の所領として「富屋」という地名が見える。高麗郡勝呂郷。坂戸飛行場建設により鶴ヶ島村から分断されてしまったため、勝呂村に編入された。

鶴ヶ島を構成した14ヶ村(1926年の大字界)
新町名
富士見
かつての大塚野新田にあった坂戸飛行場跡地の開拓に伴い、1951年(昭和26年)に設置された大字。大部分の領域は後に区画整理が行われ、1980年(昭和55年)に住居表示が実施された。
鶴ヶ丘
戦後開拓に伴い、1954年(昭和29年)に設置された大字。
脚折町
共栄町
鶴ヶ島インターチェンジ開設に伴う脚折・藤金の区画整理により、1984年(昭和59年)に設定された町名。「共栄」はもともと戦中に北海道や富山県などから入植した人々によって開拓された村中央部の名称となっていたもの。共栄町はそのごく一部である。
羽折町
坂戸市浅羽野地区および下新田の区画整理に伴い、1985年(昭和60年)に設定された町名。従前の小字「羽折」は、鶴が羽を折ったことにちなむという俗説があるが、赤土の地を意味する埴居(はにおり)の転訛とされている。
松ヶ丘
南町
関越自動車道建設や鶴ヶ島駅近辺の住宅・都市整備公団による開発に伴う藤金・太田ヶ谷・鶴ヶ丘の区画整理により昭和61年に設定された町名。松ヶ丘は鶴ヶ丘の松林であったことから、南町は新たに開設された南小学校・南中学校にちなんでつけられた。
新町
高倉・下新田・中新田・上新田の区画整理により、2004年(平成16年)11月20日に設定された町名。1649年(慶安2年)の検地帳にある古い名である。
三ツ木新町
柳戸町
圏央鶴ヶ島インターチェンジ開設に伴う太田ヶ谷・三ツ木の区画整理により、2004年(平成16年)12月4日に設定された町名。柳戸町は従前の小字にちなむ。

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