那須塩原市

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栃木県那須塩原市

那須塩原市(なすしおばらし)は、首都圏・関東地方及び栃木県の最北部に位置する人口約11万6千人の市。那須塩原都市圏の中心都市。人口約11万8千人の佐野市に僅差で次いで県内人口第6位で、面積は日光市に次いで県内第2位、市内総生産は宇都宮市・栃木市・小山市に次いで県内第4位の栃木県北部最大の都市である。日本最大級の扇状地那須野が原の大部分を市域とする。明治政府の殖産興業政策による東北本線(宇都宮線区間)開通、那須疏水(日本三大疏水の一つ)開削、那須野が原開拓事業により、明治期に形成された比較的新しい都市である。首都機能移転先の第一候補地であり、日本有数の温泉地(塩原温泉郷等)を擁する高原観光都市でもある。酪農も盛んで、生乳の粗生産額が本州第1位(全国第4位)である。

概要

本市は関東平野の北端の扇状地上に立地し江戸時代以前は「手にすくう水も無し」とうたわれた那須野が原が広がり不毛の台地であった。江戸時代には大田原藩による大田原用水(後の蟇沼用水)や、山口堀(後の旧木ノ俣用水)など、飲料水や灌漑に用いるための用水路が開削・拡張されたが、規模が小さく那須野が原台地を潤すほどにはいたらなかった。

しかし明治時代に入って、明治政府の殖産興業政策により、会津と東京の物資輸送を担う大運河構想を発端として那須疏水が整備されると那須野が原の開拓が急速に進展した。この名残として黒磯地区、西那須野地区、塩原地区には今でも那須野が原の地に入植したかあるいは農場を拝領した明治の宰相、要人の名を冠した地名が多く残る。

黒磯地区・西那須野地区の市街地は、明治以降すなわち1883年(明治16年)の日本鉄道(東北本線)の開業、1885年(明治18年)に那須疏水の開削により形成された比較的新しい市街地である。一方、塩原地区は、日本有数の温泉地として全国的に名が知れており、かつては塩原十一湯と呼ばれた1200年以上の歴史を持つ古い温泉郷であり、明治大正期の数々の文豪がこよなく愛した。

開拓と疏水の街
「疏水」、「那須疏水」、および「那珂川#那須疏水事業」も参照
那須野ヶ原は那須岳、大佐飛山地、高原山より流れ出る複数の河川(那珂川、熊川、蛇尾川、箒川)によって国内最大級の複合扇状地が形成されている。その面積はおよそ4万haにのぼるが、大田原市以西那須連峰山麓部までの一帯の河水は、そのほとんどが伏流水として地下に潜る。そのため、井戸も湧出させるまでに数10m - 100m以上を掘削する必要がある。また北側の那珂川は水量こそ豊富であるものの深い谷底を流れ、南側の箒川もまた扇状地の最も低くなっている場所を流れているため、ここから田畑へと水を引くことができない。大田原藩や黒羽藩などの那須地域の諸藩が、城下の水を確保するために掘削した小規模な蟇沼用水や木ノ俣用水のように小規模な用水路が引かれることもあったものの、那須野が原では広範囲に砂礫層が堆積しているため、保水力が弱く水田や用水路から水が地中へと浸透してしまう。このため流域の住民は厳しい水供給を余儀なくされていた。実話として、那須野ヶ原より約4km離れている箒川まで水桶を抱えて水を確保しに往復していたという話もある。『手にすくう水もなし』と例えられるほど慢性的な水不足に悩まされた那須野の住民にとって安定した水供給は悲願であったが、蟇沼用水や木ノ俣用水などが細々と水脈を保っていた以外に水利はなく、明治に入るまで那須野ヶ原は原野のまま存置されてきた。

さらに、地面を耕せば大量に石が出るため、農作業には柄が短く頑丈に作られた特別な鍬を必要とした。

このように那須野が原は元々水資源に乏しく農地には適さない地域であり、江戸末期まではほとんど集落のない原野であった。

明治時代、那須野ヶ原の本格的な開拓が行われたが水供給の問題は尾を引いていた。初代栃木県令鍋島幹彼は、那須と東京を運河で結ぶ「大運河構想」を練っていた。この構想は壮大すぎ実現には至らなかったが、これにヒントを得た那須野ヶ原の灌漑整備構想がもたれるようになった。那須地方の実業家であった印南丈作と矢板武は、那珂川から用水を引き那須野ヶ原の灌漑用水に利用しようとする構想を打ち立てた。事業計画は容易に進まなかったが、栃木県令三島通庸の強力な後援もあって内務省による正式な事業となり1885年(明治18年)9月、住民の宿願である那須疏水事業が着手された。

那珂川上流の西岩崎地点に頭首工(西岩崎頭首工)を建設し、そこから農業用水を台地に送水するというものであったこの疏水は、安積疏水(福島県)を掘削した熟練の技術工員により工事が進められ、幹線水路約16.3kmが着工から僅か5か月という極めて早いペースで完成した。翌年からは支線水路約46.5kmが建設され、長年水不足に悩まされた那須野ヶ原に遂に安定した水供給が図られた。事業費は当時の予算で10万円であるが、この事業費は当時の内務省土木局の年間予算の10分の1にあたり、いかに巨大なプロジェクトであったかが分かる。1905年(明治38年)と1928年(昭和3年)にも拡張事業が行われ、総延長約332.9kmの水路網によって約4,000haの開墾が可能となった。

疏水の開通により、印南丈作と矢板武による那須開墾社や三島通庸の筆耕社をはじめとして、全国各地から開拓民を募集し、開墾事業を推進した。前述のように、地表を少し掘ると石ばかりの土地であり、冬は吹き下ろす寒風に苦しめられるため、開拓は困難を極めたという。

1967年(昭和42年)頃から1994年(平成6年)の間に行われた国営那須野が原開拓建設事業において近代化整備を施されると共に[1]、統合によって相互利用が可能となった[2]。

那須疏水は、安積疏水(福島県郡山市とその周辺地域)、琵琶湖疏水(滋賀県琵琶湖-京都市)と並ぶ日本三大疏水の一つと数えられる。那須野が原用水は2006年2月3日に疏水百選にも選ばれている[2]。

栃木県北部地域の中心都市として
明治以前より扇状地の扇端部で水利の良い大田原市は奥州街道などが通り政治・交通の要衝であった。しかし、那須野が原の開拓後は、国道4号のほか、東北本線が3駅、東北自動車道のICが2箇所、東北新幹線が停車するなど主要交通網が当市域を縦貫し、工業団地が多数建設され、さらには首都機能移転候補地の一番手に挙がり、合併後においては、栃木県北部地域において最大の人口・面積・市内総生産を擁し、国勢調査においては大田原市や矢板市等県北部地域を包含する那須塩原都市圏が設定され、広域の道路標識においては大田原ではなく那須塩原が表示されるようになるなど、当市は交通・物流、経済・産業、人口・都市機能において県北地域の中心として扱われるようになってきている(これに対し大田原市は、裁判所支部、検察庁支部、法務局支局及び天気予報の拠点とされるものの、宇都宮線が1駅、国道4号線が西端を僅かに通過しているのみであり、那須塩原都市圏の副中心都市に過ぎない)。

首都機能移転の第一候補地として
旧西那須野町域は、首都機能移転先の第一候補地であった。 1999年(平成11年)12月20日、国会等移転審議会は、小渕恵三内閣総理大臣に対し、移転先候補地として「栃木・福島地域」「岐阜・愛知地域」、そして将来移転先候補地となる可能性がある地域として「三重・畿央地域」を選定する答申を行った。審議会では、移転先候補地の答申を行うにあたり、16の評価項目を設け点数付けを行い、さらに、各項目の重要度を加味した上で総合点を算出し、結果、栃木・福島地域(那須・阿武隈地域)が最高得点を獲得した。なお、西那須野町は、合併前は、県内の町としては最大の人口を擁していた。

詳細は「首都機能移転」を参照
市名
市の名称「那須塩原」は、合併当時において当市域内で新幹線の駅名として長年使用されており、全国的観光地で著名な「那須」と「塩原」を用いることで地理的にイメージしやすい事から選定された[3]。なお、那須高原などの観光資源を抱える隣接の那須町が混同防止のため“那須”の名称を使わないよう求めていたが、協議会側は「那須の地名は那須町だけのものではない」とし、投票で決定した。また同時に市章を制定した。[4]

歴史

詳細は「那須郡」および「塩谷郡」を参照
縄文時代
縄文時代中期〜後期 槻沢に集落が形成される(槻沢遺跡)。同遺跡出土の深鉢形土器30箇は国の重要文化財に指定。[6]
平安時代
806年(大同元年) - 塩原元湯で温泉が発見されたと伝えられる
1059年(康平2年) - 那須三郎宗重、板室(塩沢)温泉を発見
1156年(保元元年) - 塩原八郎家忠が塩原・三依・横川を領し、八郎館を築
1184年(康平元年) - 平貞能、宇都宮朝綱を頼って、塩原に草庵を結ぶ
1185年(康平2年) - 黒館五郎、磯勝光らが黒磯を開いたと伝えられる
鎌倉時代
1193年(建久4年) - 源頼朝が那須野ケ原一帯で大規模な巻狩りを行う
1314年(正和3年) - 妙雲寺が開山される
室町時代
1394年~ (応永年間) 茶臼岳で大規模な爆発が発生。その後噴火が頻発し黒磯にも降灰したと伝えられている
1476年(文明8年) - 小山伊勢守が塩原を領有する
江戸時代
1624年~ (寛永年間) - 宇都宮藩主奥平忠昌、古町温泉に入湯する
1627年(寛永4年) - 奥州街道が整備される(このころ鍋掛宿が誕生)
1645年(正保2年) - 原街道(氏家~白河)ができる
1646年(正保3年) - 越堀宿が誕生
1658年(万治元年) - 新田開発のための長島堀開削
1659年(万治2年) - 元湯温泉が地震のため大被害を受ける
このころ、岩崎掘り開削
1695年(元禄8年) - 会津中街道が開通する(高林、百村、板室、三斗小屋などが宿となる)
1713年(正徳3年) - 下塩原村(福渡、塩釜、塩の湯、畑下、門前、古町)誕生
1765年(明和2年) - 穴沢用水(旧木ノ俣用水の前身)開かれる
1771年(明和8年) - 蟇沼用水が石林から大田原まで延長される
1783年(天明3年) - 那須地方を大飢饉が襲う(天明の大飢饉)
1781年~(天明年間) - 蟇沼用水取入口拡張、大田原城下へ至る新堀開削
1810年(文化7年) - 山口堀開削
1830年(天保元年) - 大田原宿の商人若林善兵衛が南郷屋あたりを開墾
1842年(天保12年) - このころ米沢藩士加勢友助らが加治屋あたりを開墾
1843年(天保14年) - 郷土出身の大画家高久靄がい逝去
1846年(弘化3年) - 茶臼岳噴火、この時の噴火以来噴気活動を持続する
明治時代
1868年 慶応4年・明治元年) - 戊辰戦争(板室、塩野崎、三斗小屋で戦いが起きる)。石林の民家が焼かれる。塩原温泉に旧幕府軍が駐屯し、全村149戸が会津藩に焼かれる。
1873年(明治6年) - 日新館(鍋掛小前身)、又新学舎(穴沢小前身)、道明学舎(寺子小前身)、開生校舎(塩原小前身)、金沢学校(金沢小前身)開校
1874年(明治7年) - 草風学舎(大原間小前身)、明道学舎(高林小前身)、教明学舎(波立小前身)、関谷学校(関谷小前身)、高貫学校(大貫小前身)、横接学舎(横林小前身)、開進学舎(上塩原小前身)開校
1875年(明治8年) - 化成学舎(黒磯小前身)、修身学舎(鴫内小前身)、育才学舎(槻沢小前身)開校
1878年(明治11年) - 千本松に観象台設置
1879年(明治12年) - 烏が森丘上に内務卿伊藤博文・松方正義を迎え、印南丈作・矢板武が水路の計画を説明
1880年(明治13年) 山形県令三島通庸ら、肇耕社を開設、印南丈作・矢板武ら那須開墾社を開設
1881年〜1887年 (明治14年~20年) 漸進社・那須東原開墾社・青木農場・佐野開墾・共墾社・毛利農場・戸田農場などの農場が開設される
1881年(明治14年) 大山巌・西郷従道、加治屋開墾場を開設、 郡司忠平ら、郡司開墾を開設、 板室小学校開校、那須岳爆発
1882年(明治15年) 肇耕社の一部に三島村誕生、 那須原飲用水路(細竹~千本松)が完成
1884年(明治17年) 新陸羽街道(国道4号)開通、 栃木県令三島通庸が塩原新道(塩原街道)を開通させる、晩翠橋仮橋落成。
1885年(明治18年) - 日本三大疏水の一つ那須疏水通水
1885年(明治18年) - 那須開墾社・加治屋開墾場の区域に那須野村(のち西那須野村)が起立。
1886年(明治19年) - 宇都宮~黒磯間の鉄道開通〔黒磯、那須(西那須野)駅開業〕、塩原への人力車運行。
1888年(明治21年) - 大蔵大臣松方正義、農場〔後の千本松(松方)農場〕経営を始める。外務次官青木周蔵、別邸建築。 奥蘭田が塩原温泉へ来る
1889年(明治22年) 町村制施行により高林村、鍋掛村、東那須野村、塩原村、箒根村が発足
1889年(明治22年)4月1日 - 那須野村が西那須野村に改称。西那須野村、狩野村(かりのむら)、塩原村が発足。
1891年(明治24年)5月1日 - 那須駅が西那須野駅に改称される。
1892年(明治25年) - 烏森簡易小学校が西那須野尋常小学校西校(西小学校)となる。乃木希典、石林に別荘建築。
1893年(明治26年) - 西那須野尋常小学東校(東小学校)開校。 新木ノ俣用水開通。
1894年(明治27年) - 晩翠橋落成
1895年(明治28年) - 国木田独歩が佐々木信子と古町の上会津屋に宿泊。
1896年(明治29年) - 長塚節塩の湯玉屋に2ヶ月滞在。
1898年(明治31年) - 東那須野駅(現・那須塩原駅)開業。
1899年(明治32年)6月 - 尾崎紅葉が畑下の清琴楼に宿泊。
1902年(明治35年) - 皇太子行啓。狩野第二尋常小学校(三島小学校)開校。元帥陸軍大将陸軍参謀総長大山巌、別邸建築。 関谷宿大火。
1903年(明治36年) - 西那須野尋常小学南校(南小学校)開校。 松方正義、別邸建築。三島通庸の別邸を献上を受けて塩原御用邸を造営。
1904年(明治37年) 青木周蔵が私立青木尋常小学校(現・市立青木小学校)開校。
1908年(明治41年)
3月21日 - 森田草平と平塚雷鳥が尾頭峠で心中未遂事件を起こす。
西那須野~大田原間に那須人車軌道開通、斉藤茂吉塩原に滞在。
1911年(明治44年) 中塩原(現塩原中)に日本酢酸製造会社塩原木工乾溜工場が操業開始
大正時代
1912年(明治45年・大正元年) 塩原水力電気株式会社が電灯の供給を開始。東那須野村から黒磯町が分立。 関谷~西那須野間に塩原軌道が開通。8月に夏目漱石が塩原に滞在。
1914年(大正3年) 黒磯~那須間に乗合自動車が運行開始。
1918年(大正7年) 西那須野~黒羽間に東野鉄道が開通。 黒磯興業株式会社(銀行)開業。
1919年(大正8年) 塩原村が町制施行により塩原町となる。
1922年(大正11年) 塩原軌道、電車に改め西那須野から塩原口まで開通(昭和10年廃止)。
1925年(大正14年) 黒磯町立実践女子校(黒磯高等学校の前身)開校。
昭和時代
1929年(昭和4年) 八郎が原スキー場開設
1931年(昭和6年) 黒磯駅前大火で百四十戸焼失。
1932年(昭和7年)4月1日 - 西那須野村が町制施行、西那須野町となる。
1934年(昭和9年)12月4日 塩原地内が日光国立公園に指定
1939年(昭和14年) 傷痍軍人塩原温泉療養所(現国立塩原温泉病院)が開設される
1942年(昭和17年) 埼玉飛行場開設。
1944年(昭和19年) 東京の国民学校児童が集団疎開。
1945年(昭和20年) 県立那須農学校(のち那須農業高等学校、現那須拓陽高等学校)開校。
1947年(昭和22年) 六・三制発足、黒磯中学校、東和中学校(現東那須野中学校)、高林中学校、鍋掛中学校、西那須野中学校、三島中学校、箒根中学校、上塩原中学校開校。
1948年(昭和23年) 昭和天皇が塩原光明寮に行幸。
1949年(昭和24年)2月5日 福渡大火81戸焼失。
1950年(昭和25年) 塩原町、日光国立公園に編入。
1951年(昭和26年) 戸田小学校開校。塩原町観光協会設立。
1953年(昭和28年) 塩原町役場庁舎新築
1955年(昭和30年)
1月 黒磯町、鍋掛村、東那須野村、高林村の1町3村が合併し、黒磯町となる。
2月11日 - 西那須野町と狩野村が合併、新しい西那須野町となる。
4月1日 - 大字加治屋を大田原市へ編入。
1956年(昭和31年)9月1日 塩原町と箒根村が合併し塩原町となる
1957年(昭和32年) 黒磯電報電話局開局。 那須疏水土地改良区事務所完成、那須疏水記念碑を建立。塩原町営水道完成。
5月 門前大火65戸焼失・塩原町役場庁舎焼失
1959年(昭和34年) 宝積寺駅~黒磯駅間電化
1961年(昭和36年) 県立那須工業高等学校(現那須清峰高等学校)開校、鶏頂スキー場開業。
1962年(昭和37年) ブリヂストンタイヤ那須工場操業開始
1963年(昭和38年) 横綱柏戸が療養のため5月15日から7月18日まで塩原温泉滞在
1964年(昭和39年) 国道4号西那須野バイパス開通。塩原光明寮が国立塩原視力障害センターとなる。埼玉小学校開校。 黒磯町・那須町共同火葬場設置
1965年(昭和40年) 塩原バレーライン舗装完成
1967年(昭和42年) 那須野原開拓建設事業所開設・国営那須野原総合農地開発事業着手。 西那須野町に学校給食センター開設
1968年(昭和43年) 黒磯町に学校給食センター開設。 東野鉄道廃止。 八汐橋完成
1970年(昭和45年) 11月1日に黒磯町が市制施行、黒磯市となる。 塩原町民プール開設
1971年(昭和46年) 板室温泉が国民保養温泉地に指定される。稲村小学校開校
1972年(昭和47年) 西暦日塩もみじラインが開通。 豊浦小学校開校
1973年(昭和48年) 深山ダム、沼原発電所が完成
1974年(昭和49年) 東北縦貫自動車道の矢板~白河間が開通し千本松に西那須野塩原インターチェンジが開設
1975年(昭和50年) 第一回塩原温泉ぼたん祭開催
1976年(昭和51年) 国道4号線黒磯バイパスが開通。 黒磯南高等学校開校
1977年(昭和52年) 西那須野町郷土資料館開館。 塩原ダム完成。 日新中学校、大山小学校開校
1978年(昭和53年) 回顧橋、回顧トンネル開通。 共英小学校開校。 県立那須養護学校開校
1979年(昭和54年) 黒磯市市民健康センター完成。 西那須野町図書館開館。 塩原幼稚園開園。 尾崎紅葉文学碑建立
1980年(昭和55年) 公共下水道水処理センター完成。 黒磯高等学校野球部が甲子園出場。 西那須野町開拓百年記念祭開催。 栃の葉国体開催、軟式テニス(黒磯市)、男子ボクシング(西那須野町)、自転車ロードレース通過(塩原町)の会場となる
1980年(昭和55年)4月1日 厚崎中学校開校
1981年(昭和56年) 西那須野町清掃センター完成。 県道黒羽・西那須野線と県道藤原・西那須野線が国道400号となる
1982年(昭和57年) 黒磯市文化会館落成。 東北新幹線開通、那須塩原駅(旧東那須野駅)が開業。 塩原町が塩谷郡から那須郡へ編入。
1983年(昭和58年) 天皇の間記念公園完成。 黒磯市役所(那須塩原市役所)新築移転。鶏頂山見晴らしスキー場開業。
1984年(昭和59年) 東原小学校開校
1986年(昭和61年) 西那須野町町民ホール(現三島ホール)完成。 黒磯北中学校開校
1987年(昭和62年)
黒磯市図書館会館。
7月1日 塩原温泉家族旅行村・箱の森プレイパーク開村。。
12月16日 ハンターマウンテン塩原開業。
1988年(昭和63年) 那須野が原公園開園。
7月22日 青葉通り開通。
10月19日 尾頭トンネルが開通する。
平成時代(合併前)
1990年(平成2年) 黒磯市と那珂湊市(現ひたちなか市)が姉妹都市締結。ぽっぽ通り全線開通。西那須野町庁舎新築
1991年(平成3年) 見晴らしスキー場がエーデルワイススキー場に改称。
1992年(平成4年) ふれあい橋完成。 戸田調整池完成
1993年(平成5年) 西那須野町郷土資料館の本館焼失
1994年(平成6年) 那須野巻狩八百年祭開催。 那須高原大橋開通。 那須野が原ハーモニーホール開館。
5月20日 塩原ビジターセンター開所
7月6日 B&G海洋センター(現塩原B&G海洋センター)開館。
8月1日 ハロープラザ塩原(現ハロープラザ)開館。
1995年(平成7年) いきいきふれあいセンター開館。 青葉通り(古町~中塩原)全線開通。 塩原発電所運転開始。からくり時計開設
1996年(平成8年) 西那須野町と富山県滑川市と姉妹都市締結。アグリパル塩原オープン。
1997年(平成9年) あすなろ創作館開館。 那須野が原公園にサンサンタワー完成。にしなすの運動公園体育館完成。 遊湯センターオープン
1998年(平成10年) 道の駅「明治の森・黒磯」オープン。日新の館開館。 健康長寿センター開館。 総合保健福祉センター「ゆっくりセンター」開設。8月末豪雨災害が発生。 健康長寿センター完成
1999年(平成11年) 那須大学開学。 天皇皇后両陛下災害被災状況視察。もみじ谷大吊橋完成。 華の湯オープン
1999年(平成11年)12月20日 ― 国会等移転審議会は、小渕恵三内閣総理大臣に対し、首都機能移転先候補地として「栃木・福島地域」「岐阜・愛知地域」、そして将来移転先候補地となる可能性がある地域として「三重・畿央地域」を選定する答申を行った。審議会では、移転先候補地の答申を行うにあたり、16の評価項目を設け点数付けを行い、さらに、各項目の重要度を加味した上で総合点を算出し、結果、栃木・福島地域(那須・阿武隈地域)が最高得点を獲得した。
詳細は「首都機能移転」を参照
2000年(平成12年) 西那須野町と埼玉県新座市と姉妹都市締結。 創作オペラ「那須野巻狩り」上演。 創作劇「那須野の大地」初演
2001年(平成13年) 七ツ岩吊橋完成。
2003年(平成15年) 黒磯市・西那須野町・塩原町合併協議会設置。 塩原もの語り館開館、紅の吊橋完成
2004年(平成16年) 常陸宮殿下塩原行啓。那須野が原博物館、げんき広場完成。 合併協定書調印式。 山ゆりの吊橋完成
平成時代(合併後)
2005年(平成17年)1月1日 - 黒磯市、那須郡西那須野町、同郡塩原町[7]の新設合併により那須塩原市が発足。那須塩原市合併記念式典挙行。 田舎ランド鴫内完成。
2006年(平成18年) 那須塩原市合併1周年記念式典挙行。 茨城県ひたちなか市、富山県滑川市と姉妹都市締結。 塩原堆肥センター、塩原温泉湯っ歩の里完成。 塩原温泉開湯1200年記念祭開催。
2007年(平成19年) 塩原庁舎新築移転。 地域バス「ゆ~バス」運行開始。
2008年(平成20年) 那須塩原市シルバー人材センター西那須野事業所開所。 那須ガーデンアウトレットオープン。宿泊体験館メープル開所。西那須野学校給食共同調理場完成
2009年(平成21年) 国道400号大西バイパス開通。 黒磯板室インターチェンジ開通。 那須塩原クリーンセンター竣工。そすいスクエアAQUASオープン。
2010年(平成22年) 那須塩原市合併5周年式典。 都市計画道路3・4・2中央通り供用開始。 那珂川河畔公園リニューアルオープン。
2011年(平成23年) 東日本大震災発生。 国道400号がま石トンネル、同中塩原バイパス開通。 青木サッカー場オープン。市道金沢高阿津線開通。 国道400号上赤田交差点開通。
2012年(平成24年) 東北新幹線開通・那須塩原駅開駅30周年。白河市と災害時における相互応援に関する協定を締結。都市計画道路3・4・1号本郷通り開通。
2013年(平成25年) 木の俣園地に巨岩吊橋と交流広場がオープン。中国人観光客の誘客のため上海に観光拠点を開設。 「予約ワゴンバス」の運行開始。 那須地域定住自立圏の中心市を宣言
旧市町の沿革
詳細は「那須郡」を参照
旧黒磯市
黒磯市
鍋掛村
東那須野村
高林村
旧西那須野町
西那須野町(那須野村)
狩野村
詳細は「首都機能移転」を参照
旧塩原町
詳細は「塩谷郡」を参照
塩原町
箒根村

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  • 埼玉県深谷市の浮気調査|トラスト・アイ総合探偵事務所 代表者挨拶

    埼玉県深谷市の浮気調査|トラスト・アイ総合探偵事務所

    当探偵事務所が浮気調査・不倫調査を専門に行っているのは、浮気は大切な方や家族を裏切る最も卑劣な行為だからです。

    「浮気調査をして、浮気の証拠が取れたら終わり」ではなく、離婚訴訟や解決に導くためのアドバイスも行っております。離婚問題に詳しい弁護士や離婚相談アドバイザーとの連携・行政書士との提携など、 「浮気の証拠は取れたけど、何をどうして良いか判らない」 といった皆様のお手伝いもしております。

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