栃木県矢板市
矢板市(やいたし)は、栃木県北部の市。旧塩谷郡。栃木県庁塩谷庁舎が設置される等、行政上栃木県塩谷地区の中心となる市である。
概要
高原山(たかはらさん)の南麓に広がり、山岳地帯及び森林、里山に囲まれ、箒川、宮川、内川などの河川が北から南へ流れる。北部山岳・森林地帯は全国名水百選に選ばれた尚仁沢湧水の水源となっており水源の森百選に選定されている高原山水源の森や森林浴の森100選に選定されている栃木県民の森、八方自然休養林、八方ヶ原など豊かな自然の宝庫で環境教育、ハイキング向けに整備されている。高原山は古くは山岳宗教の対象でもあった。中部は南北に小高い丘が連なる塩那丘陵の尾根に挟まれた宮川、中川、内川が流れる平地があり水田地帯が広がっている。南部は関東平野の北端ともいえる平地と小河川に刻まれた小高い丘の丘陵地からなり塩谷町から流れてくる荒川に接している。また中央部から丘陵をひとつ隔てた西部は箒川、江川流域に那須野が原に連なる平地が広がり水田地帯となっている。
歴史
有史以前
日本最古と推定される黒曜石採掘坑遺跡がある高原山。
市北部にある活火山・高原山を構成する一峰である剣ヶ峰が原産の黒曜石を使用した石器が当市より200km以上離れた静岡県三島市や長野県信濃町の遺跡で発見され研究が進められている。産出時期は古いものでは石器の特長より今から約3万5千年前の後期旧石器時代と考えられており、その採掘坑遺跡(高原山黒曜石原産地遺跡群)は日本最古のものと推定されている。氷河期の寒冷な時期に人が近付き難い当時の北関東の森林限界を400mも超える標高1,500m近い高地[1]で採掘されたことや、従来の石器時代の概念を覆すような活動・交易範囲の広さ、遺跡発掘により効率的な作業を行っていたこと等が分かってきて注目が集まっている。またこの新しい発見により日本人の起源、人類の進化をたどる手掛かりになると言う研究者の発言も報道もされている[2][3][4]。最新の研究では南関東を中心に高原山産の黒曜石製石器が広範囲に流通していたことが分かってきている。
矢板市教育委員会は平成20年度調査で、1万2千年〜1万5千年前に製作されたと推定できる国内最大級の尖頭器とその採掘坑跡を発見したと発表した。また同時に19年度の調査で発掘した黒曜石採掘坑跡は1万9千年前のものと推定していたが、放射性炭素年代測定により8千5百年〜9千年前の縄文時代早期のものと修正を行った。[5][6][7]
高原山黒曜石原産地遺跡群発見・発掘がもたらすもの
詳細は「日本列島の旧石器時代#高原山黒曜石原産地遺跡群発見・発掘がもたらすもの」を参照
市西部の幸岡地区などで貝殻の化石、矢じりなどが発掘できる。
有史以降
〜600年 市内各地に古墳が作られる。
724年 (神亀元年) 行基が剣ヶ峰に法楽寺を建立。
795年 (延暦14年) 木幡神社創建と伝わる。
803年 (延暦22年) 法楽寺雷火により焼失。
806年 (大同元年) 平城天皇の勅願により、徳一が法楽寺本尊を現在の寺山観音寺に移し、七堂伽藍を建立という。
901年 (延喜元年) 沢村観音寺開山という。
1127年 (大治2年) 那須氏神田城を築城。この頃堀江頼純塩谷を領す
1199年 (正治元年) 塩谷朝業、川崎城築城。
1200年 (正治2年)頃 法橋行縁が入寺し、荒廃していた寺山観音堂を中興という。
1315年 (正和4年) 御前原城築城。
1595年 (文禄4年) 川崎城廃城。岡本正親、泉を領す。
1636年 (寛永13年) 日光北街道整備。
1644年 (正保元年) 御前原城廃城。泉騒動により岡本家改易、泉領は幕府直轄地となる。
1695年 (元禄8年) 会津中街道整備。
1884年 (明治17年) 奥州街道(現国道4号)開通。
1886年 (明治19年) 東北線開通。
1886年 (明治19年) 山縣有朋、伊佐野農場(現山縣農場)を開く。
※ 一部矢板市ホームページより要約
近代
かつては塩谷郡役所があり、古くは栗山村、藤原町(共に現在の日光市)、塩原町(現在の那須塩原市)、塩谷町など塩谷郡一円の木材、家畜の集積地として繁栄した。 現在は栃木県庁塩谷庁舎、塩谷広域行政組合、塩谷消防本部、国際医療福祉大学塩谷病院など塩谷地区の中心機関が置かれている。 1959年(昭和34年)頃まで東武鉄道矢板線が矢板駅-新高徳駅間を結んでいたが、自動車交通の発達とともに現在は廃線になっている。近年は東北本線(宇都宮線)、国道4号、東北自動車道矢板インターチェンジが集中する交通の要衝となっている。
地名の由来
「矢板」の地名の由来については、確定的なものはなく諸説ある。例えば、美田という意味の「八重田(やえた)」が転じたもの、あるいは、田畑を焼く「焼田(やきた)」が転じたものという説があるが、美田に関するような伝承はなく、焼田焼畑については、この地方のどこでも行われていたものなので、それを特別に地名にするような要素はほとんどない。また、土留めの板という意味の「矢板」が地名となったとも考えられるが、そのきっかけが全く不明であり、またそれを推測するのも難しく、これも根拠に乏しい。矢板市の市名となった矢板市大字矢板は、矢板氏の発祥の地でもあるが、あるいは、地名が先ではなく、矢板氏という一族が支配したことで、その土地が矢板と呼ばれた可能性もあり、地名が先ではなく、氏姓が先で地名になった可能性もあるが、これも推測の域を出ない。
市の沿革
1889年(明治22年)4月1日 - 町村制施行により塩谷郡矢板村、泉村、片岡村を設置。
1895年(明治29年)6月25日 - 矢板村が町制施行し矢板町となる。
1954年(昭和29年)12月31日 - 矢板町が那須郡野崎村の一部を編入。
1955年(昭和30年)1月1日 - 矢板町、泉村、片岡村の新設合併により矢板町が発足。
新町の名称については、当初は塩谷町とすることになったが矢板町の議会や町民が反対し知事の裁定で矢板町に決定している[8]。
1955年(昭和30年)4月1日 - 矢板町の一部(旧片岡村大字松島)を氏家町(現在のさくら市)に分合。
1958年(昭和33年)11月1日 - 矢板町が市制施行し矢板市となる。