群馬県嬬恋村
嬬恋村(つまごいむら)は、群馬県の西端に位置する村。吾妻郡に属す。
夏の冷涼な気候を活かした高原野菜の栽培が盛んで、高原キャベツの産地として知られる。
概要
村名の「嬬恋」は、日本武尊が東征の帰路、鳥居峠に立ち、海の神の怒りを静めるために海に身を投じた愛妻の弟橘媛を「吾嬬者耶」(あづまはや)と追慕した古事にちなむ(郡名などの「吾妻」も同じ)。
上信越高原国立公園の一角を占め浅間山、四阿山、本白根山などの山々に囲まれた高原地帯には万座温泉、鹿沢温泉など数多くの温泉が湧出しゴルフ場や別荘地、スキー場、キャンプ場などのレジャー施設も数多く存在する。
二等三角点「白根山」TR25438743201(北緯36度37分06.0337秒東経138度31分40.0897秒)以北、長野県境までは草津町との境界未定地域である。
村歌「嬬恋村の歌」が存在する。1972年に嬬恋村の村歌という位置づけで、嬬恋村観光協会が主導で制作した。広大で観光資源も豊富で、のんびりとした嬬恋村の雰囲気を大川栄策と青山和子が歌うもので、シングルレコードとして日本コロムビア(当時)により制作された。現在は歌われることは少ないが、村主催の成人式やイベントなどで流されており、限定ながらも聞くことはできる。
2013年に嬬恋村文化協会より、『嬬恋村の歌』の他、「嬬恋小唄」「嬬恋慕情」「つまごい音頭」の4曲のご当地ソングがカップリングされたCDが発売された。一般の店舗では販売されていないが、嬬恋村文化協会で購入することができる。1枚500円。
歴史
先史時代
村内各所で新石器時代の土器・石器が出土する。
縄文時代
村内で出土する縄文土器は前期から晩期まで縄文時代全般に渡り、その様式は多彩で中部日本の様式と関東地方の様式が混在し長野県・新潟県との県境に位置する地勢からも交易や交流の中継地であったことが伺われる。1993年に今井地区東平遺跡から発掘された2つの黒色磨研注口土器(嬬恋郷土資料館所蔵、群馬県指定重要文化財)は成型後にへらなどを使用してその表面を滑らかに磨き上げ、酸化炎を用いた焼成技術によって炭素を吸着させて黒光りさせる技法が用いられている。これは大陸の影響を受けて九州から西日本を中心に広がった黒色磨研土器の様式を受け継いでいるものであり、縄文後期東日本の社会構成や技術文化の波及を考察する重要な資料とされる。
弥生時代
稲作に適さない寒冷な気候によるものか稲作に関連する弥生時代の遺構・道具等は嬬恋村では出土していないが弥生式土器等弥生文化の痕跡は縄文時代に引き続き出土しており、狩猟採取生活と共に畑作中心の農耕が営まれていたと推察される。なお干俣地区万座温泉の熊四郎洞窟遺跡において弥生式土器や木炭が発見されており、標高1,800mの険阻な山岳地帯での定住が考え難いことからも狩猟や交易の為の峠越え等の一時利用が推察されると共に古代における温泉利用を伺わせる。
平安時代
天仁元年(1108年)に浅間山が大噴火し、大笹および大前の地区には追分火砕流が襲い、また、上野国(現在の群馬県)のほぼ全域が大量の火山灰で覆われた。
江戸時代
上州(群馬県)と信州(長野県)を結ぶ街道が整備され、大笹には関所が置かれた。
天明3年(1783年)に浅間山が噴火し、8月5日の大噴火では鎌原村(現在の鎌原地区)が火砕流や土石流に飲み込まれ、同地区の住居は壊滅すると共に多くの住民が犠牲になった。また、同噴火によって生じた岩屑流は、鎌原、大前、大笹地区等の集落を破壊した。
大正~昭和前期時代
長野県との県境にある御飯岳の干俣側に硫黄鉱床が発見され、いわゆる小串鉱山として操業を開始した。最盛期には2000人程が住むある種の街を形成していたが、昭和46年(1971年)に閉山した。尚、昭和12年(1937年)11月11日には、山津波(大規模な地すべり)によって死者245人他多大な被害が発生している。