茨城県古河市
古河市(こがし)は、関東地方のほぼ中央、茨城県の西端に位置する市である。 人口約14万人。旧・下総国(千葉県)葛飾郡。
近隣の栃木県野木町などから労働人口流入があり、本市を中心とする古河都市圏を形成している。 なお、市名は「こが」であり「ふるかわ」ではない。
概要
「古河」は、古く「許我」と表記され、『万葉集』に当時の情景が二首詠まれている。すでに奈良時代から渡良瀬川の渡し場として賑わっていたことが伺える。
平安時代には、9世紀初め〜10世紀における東日本最大級の“製鉄所”(川戸台遺跡)があった。9世紀後半の「半地下式平窯」(江口長沖窯跡)も発見されており、製鉄や窯業の生産拠点でもあった。
室町時代後期から戦国時代にかけて古河公方の本拠地、江戸時代には古河城の城下町、日光街道の宿場町・古河宿が盛えた。 古河藩領は下総国・下野国・武蔵国に跨り、市域も下総国、千葉県を経て茨城県に編入された経緯があることから、旧常陸国、水戸街道が中心となって形成された近代以降の茨城県の県史としては傍流的な位置づけになる。
明治期に入ると製糸産業が発達し人口が急増、古河町(当時)は一時期、県内で二番目の人口となった。 1958年(昭和33年)に東北本線が電化され、上野まで約一時間で結ばれるようになってからは、東京のベッドタウンの役割が加わって人口が増大し、合併前には人口密度で県内第1位となった。現在の古河市は、都心回帰の影響で東京のベッドタウンとしての役割は薄れたが、人口では土浦市に次いで県内第6位である。
行政上では茨城県に属するが、国道4号(日光街道)や宇都宮線(東北本線)の沿線であることから、経済や教育の面で栃木県・埼玉県・東京都とつながりが強い(旧古河市はかつて県西地域で唯一東京大都市圏に属していた)[注釈 1]。
2005年9月12日、旧古河市と総和町・三和町が新設合併、現在の古河市となる。
歴史
地理的条件
古河市が接する渡良瀬川の下流は、中世には太日川と呼ばれ(現在の江戸川)、直接東京湾に注ぐ水運上の重要な河川だったため、古河は現在の東京・房総と北関東を結ぶ位置にある。このような拠点性、および西方(現在の渡良瀬遊水地方面)が湿地である天然の要害でもあったことから、室町時代に古河公方が古河城に移座することになった。しかしこれら水運の良さと要害性の一方では、水害に悩まされることが多く、明治期の足尾銅山鉱毒事件の際には、河川改修事業により古河城が徹底的に破壊されることになる。
先史時代
縄文時代のものとみられる貝塚、集落が発見されており、そのころから人が定住しているものと考えられる。
古代(奈良・平安時代)
古河の歴史は、『万葉集』にまで求められ、当時の情景が二首詠まれ「許我(こが)」の記述までさかのぼる[2]。元の古河地域は奈良時代から渡良瀬川の渡し場として賑わっていたことが伺える[注釈 5]。
“まくらがの 許我の渡りのからかじの音高しもな寝なへ児ゆえに”
“逢はずして 行かば惜しけむ 麻久良我の 許我(こが)漕ぐ船に 君も逢はぬかも”
平安時代:渡良瀬川近くの市内牧野地にある川戸台遺跡が、9世紀初め〜10世紀の平安時代に東日本最大級の“製鉄所”跡で、ここで生産された鍋が多賀城(仙台市)や秋田城(秋田市)に送られていたことが、古河市教育委員会の発掘調査により判明した。同じく古河市教育委員会の発掘調査により、三和窯跡群の一角で、かつて飯沼だった東仁連川近くの古河市江口にある江口長沖窯跡で、9世紀後半の「半地下式平窯」が県内で初めて発見され、ここで作られた須恵器が水運により関東地方の広範囲に流通していたと考えられるなど、平安時代にも交通の要所であり、また製鉄や窯業の生産拠点であったことがうかがえる。
中世(鎌倉時代〜戦国時代)
詳細は古河城・古河公方参照
平安時代末〜鎌倉時代初期:下河辺行平(小山氏の一族)が市内の立崎(竜崎)に館を築き、古河城の起源となる。
室町時代〜戦国時代:古河城は鎌倉公方の軍事拠点、のちには古河公方の本拠地となり、元の古河地域は関東の中心の一つとして発展する。市域南部の水海(水海城)は古河公方重臣・簗田氏の拠点となった。
近世(江戸時代)
詳細は古河城・古河藩参照
古河藩が設置され古河城が藩庁となった。現在の市域西部を日光街道(日光道中)が南北に貫き、古河城下(元の古河)に古河宿、中田に中田宿が設けられた。一方、市域東部では日光東往還(日光東街道)が縦断し、谷貝宿・仁連宿・諸川宿が設けられた。
古河藩領は、現在の市域を含む下総国北西部、および隣接する下野国南部、武蔵国北東部にまたがって形成され、当時の古河城下は古河藩領の中心にあった。しかし、近代以降に旧藩領は県境によって分断され、三方を他県域に囲まれた県最西端の町になる。なお現在の市域東部には、古河藩に含まれなかった地域も多かった。例えば、諸川宿・仁連宿は壬生藩領から天領(幕府直轄地)、谷貝宿は関宿藩領である。
歴代古河藩主においては、大老2人(土井利勝、堀田正俊)のほか、老中や京都所司代などにつくものも多い、有力譜代藩であった。
1832年:古河藩第十一代藩主である土井利位が、日本初の雪の結晶に関する観察図鑑『雪華図説』を出版した。
近代・現代
旧古河市役所
(現在は古河テクノビジネス専門学校の学舎)
明治から第二次世界大戦まで
1885年(明治18年)7月16日 - 東北本線古河駅開業。
1889年(明治22年)4月1日:町村制施行により現在の市域の町村が成立。
1896年(明治29年)3月29日:西葛飾郡が廃止され、古河町・新郷村・岡郷村・水海村・勝鹿村・桜井村は猿島郡に編入される。
1932年(昭和7年)7月1日:新郷村大字伊賀袋および立崎の一部が、埼玉県北埼玉郡川辺村(のちに北川辺町→加須市)に編入される。
第二次世界大戦後
1950年(昭和25年)8月1日 - 古河町が市制を施行し、古河市となる。(単独市制、県下4番目)
1950年(昭和25年)8月10日 - 初代の市章を制定する。
1953年(昭和28年)5月18日 – 国道125号が制定。
1955年(昭和30年)
2月11日 - 幸島村・八俣村が結城郡名崎村と合併し、三和村(みわむら)となる。
3月15日 - 古河市が、新郷村を編入する。
3月16日 - 勝鹿村・岡郷村・桜井村・香取村が合併し、総和村となる。
1968年(昭和43年)1月1日 - 総和村が町制施行し総和町となる。
1969年(昭和44年)- 三和村が町制施行・改称し三和町(さんわまち)となる。
1981年(昭和56年)4月1日 - 新利根川橋が開通。
1992年(平成4年)4月8日 - 新4号国道が全線開通。
1992年(平成4年)9月7日 - 新たな住居表示地名として、けやき平1丁目,2丁目(旧大字中田、茶屋、板間の各一部)を設定[3]。
1993年(平成5年)4月1日 - 国道354号(館林市 - 大洋村間)が制定。
2005年(平成17年)9月12日:古河市と総和町、三和町が合併(新設合併)し、新たに古河市となる。
2006年(平成18年)1月21日 - 2代目の市章を制定する[4]。
2010年(平成22年)12月17日 - 旧古河市が全額出資していた古河市住宅公社が破産。